人はみな小学校2・3年頃に、それ以降の人生が「本好きな人」となるか「そうでもない人」となるかが、決定されるのではないでしょうか? その「きっかけ」は人それぞれだと思いますが、私の場合は小学校2年の時に、担任の先生が「本を読んでくれる」という時間があり(確かナルニア国物語だったと思います)、それが発展して各自好きな本を読むという「読書の時間」というモノが授業にあったのです。 それ以降、「物語」の面白さを知り、小学校の図書室から始まり、家の近くにある公営図書館に通う日々がスタートしたのでした。 「本の面白さ」を知った子供にとって、図書館というモノはまさに「宝島」みたいな所でありました。 家の近くといっても歩いて2・30分かかるその図書館に、1週間に1・2回、せっせと足を運んだモノです。 しかし、図書館で本を借りるという事は「いつかその本を返さなきゃならない」という事であります。 借りた本を返しに行くついでにさらに次の本を借りる、という、まるで今の大人の世界でいう「サラ金地獄」みたいな生活をしばらく送っていた私の子供時代なのでありました。 例えが違うか。 リンドグレーンの「名探偵カッレくん」やケストナーの「飛ぶ教室」、ガネットの「エルマーと竜」やロフティングの「ドリトル先生シリーズ」などのいわゆる「児童文学の名作」と呼ばれるモノを初めとして、ドイルの「シャーロック・ホームズ シリーズ」やルブランの「怪盗ルパン シリーズ」、江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」や「あかね書房」から出ていた「少年少女SF文学全集」、ベルヌの「海底2万里」や「80日間世界一周」、.ウェルズの一連のSF小説など、次から次へと面白い本を発見し、当時の読書量は(悲しいことに)今の読書量をはるかに越えていたのでした。 また、この「小学校2・3年」の「本読みの面白さ」を覚え、たくさんの本をランダムに読みまくった後、さらに「本好きな人」は「二分化」されると思います。 すなわち、「名作路線」に走るか「娯楽路線」に走るか、です。 私はその後者でした。 その後、私の興味は「SF」「幻想」「怪奇」といったジャンルに段々絞られていったのでした。 ですから、自慢じゃないのですが私、未だに「小公女」だの「家なき子」だのといった本を読んだことがありません。 あ、本当に自慢じゃないですよね・・・。 この時期に読んだ本の一つに「天使で大地はいっぱいだ」があります。 作者は「後藤竜二」。出版社は講談社。 1966年に第七回講談社児童文学新人賞を受賞した作品であり、私の中では「一生忘れられない」トラウマ的なタイトルになっている児童文学の名作であります。 物語はこうです。 北海道の石狩平野にあるとある小学校に「木山霧子」通称「キリコ」という新人先生が着任してきます。いきなり6年3組の担任になった「キリコ」に対し、物語の書き手である「森谷三郎」こと「サブ」は、「六年生にもなったのに、女の先生に習わなきゃなんない。しかもしんまいのほやほやの」とことごとく反発していきます。 新米女教師への反目と和解、ガリ勉優等生「アオ」との友情、「ノブさん」「シド」「ジョウ」「マキ」という個性豊かな兄妹達への思いやり。突然現れた自殺未遂の青年「ゴンさん」とのふれあいと別離。 北海道の美しい大自然の中、やがて小学校六年という素晴らしくも短い時間は過ぎていき・・・。 特に大事件が起こるわけでもなく、起承転結で物語が進行するでもなく、書き手である小学校六年生の「サブ」の日常生活が淡々と綴られていくだけの物語です。 しかし、そこに登場する人物達はたとえ短い描写であってもみんな「生きて」おり、それぞれがとっても「魅力的」なのでした。 またこの「天使で大地はいっぱいだ」というタイトルも非常に素晴らしいと思います。 私の日常生活の中で、ちょっとした「良い事」や「嬉しい事」があると、いまだに頭の中にはこの「天使で大地はいっぱいだ」というフレーズが、ポンと出てくるのであります。 恥ずかしいことに最近になってこの物語の続編が存在していた事を知りました。 まったくもって不覚です。 タイトルは「大地の冬のなかまたち」。 しかし、この本、今は何故か「絶版」になっているらしく、インターネットの本屋や古本屋などを探しまくってみても見つけて手に入れる事は出来ませんでした。 何故絶版になっているのでしょうか?いつかは再販されるのでしょうか? この本を読むには、国会図書館に行くか、コツコツと古本屋巡りをするしかないのかな? |
ご意見、ご感想はこちらまで |