私は昔から本や漫画、テレビや映画などに登場する「名台詞」を日記に書き留めておくようにしていました。 と言うワケで、今回も昔の日記からそれらを抜き出してご紹介するのであります。 (本エッセイに出てくる名台詞・豆知識は、2003年頃読んだ「講談社現代新書」の織田正吉「ジョークとトリック 頭を柔らかくする発想」から抜粋しました) コメントはその当時のモノ。 ※印付きのコメントは、今の私の補足説明です。 「ギネス・ブックによると、世界で最も長い姓名は、1904年、ドイツのハンブルグ近くのベルゲドルフに生まれた通称ウォルフという人で、名は、Adolph Blaine Charles・・・とABC順にWYZまで続き、姓も590字もあるので、最初の5文字だけを取り、Wolfe+585,Senior、を通称にしていると言う」 ※私の大好きな「モンティ・パイソン(1969〜74)」のスケッチ(コント)にも、「極端に長い名前の人ネタ」がありました。 故人となったその男の思い出話を語るたびに、一々長い名前を言うため全然本筋に入れない、というコントでした。 日本にも「寿限無」なんて落語もあるし、洋の東西は問わず、この手の話は皆好きなのですね。 「長い小説のタイトル。 井伏鱒二『槌ツァと九郎治ツァンは喧嘩して私は用語について苦悶すること』。 大岡信の詩『心中で生き残った青年と帰らない旅に出た娘について三面記事が語らなかったいくつかのうた』」 ※映画での長いタイトルはやっぱりキューブリックの「博士の異常な愛情 又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(1963)」なのでしょうか? 「カルネデスの舟板。 刑法総論の緊急避難のところで必ず出てくる命題」 船が難破し、二人の乗員が海の中に投げ出される。 二人は一枚の小さな板切れに掴まるのだが、板は一人分の浮力しかないため、二人の体重を支えることは出来ない。 この場合、AB二人が仲良く舟板に掴まっていると二人とも死んでしまう。 AがBを殺し、一人になると一人の生命は助かる。 刑法ではこれを緊急避難と呼んで、先に捕まったAが後から掴まろうとした Bを殺すことを犯罪としないのである。 ※「緊急避難」の例題としていつも出てくる有名な話ですが、これに「カルネデスの舟板」と言う格好良いタイトルが付いていたなんて、知らなかったのであります。 「柳田国男は『蝸牛考』によって方言周圏論を唱えた。 カタツムリはデンデンムシ、マイマイツブリ、ナメクジなど他種類の方言を持っている。 240種類あまりのカタツムリの方言を5つの系に分類し、方言地図を色分けすると、東北の北部と九州の西部がナメクジ系、東北と九州がツブリ系、関東と四国がカタツムリ系、中部と中国がマイマイ系、近畿はデデムシ系、となる。 つまり、カタツムリの方言は京都を中心にほぼ同心円を描いて分布しているのである。 言葉は文化の中心となる一点を中心に、池に投げた石が波紋を描くように地方へ伝播する」 ※「言葉は文化の中心から放射状に伝播する」というのが、なるほど、なのであります。 松本清張の「砂の器(1961)」にも、これが重要なネタとして出て来ましたっけ。 「戦後、まだ闇市全盛であった時代、街頭で様々な賭博が行われていた。その一つにこういうものがあった。 台の上に、正月の飾りに用いる餅花が2・30個ばらまいて乗せてある。 白い餅花で、これがクジである。その中に当たりが封じ込められている。 胴元の男が一個の餅花を取り上げ、振ってカラカラと音を立ててから割って見せる。 中から赤い餅花の破片が出てくる。これが当たりである。 当時は衣料が不足していたので、セーターやジャンパーがその景品に当てられていた。 胴元は別の一個を取り上げ、客の前で振ってみせる。 中でカラカラと音がする。確実にそれは当たりくじであるはずなのだ。 胴元はその餅花を台の中央に置き、他の餅花をその周囲に静かに寄せる。 しかし、今振って中の音を確かめた餅花は誰の目にも見誤ることはない。 その状況で勝負が始まる。客は当然、胴元が確かめて見せた餅花を取る。 ところが、それを壊してみると、中は空である。 確かにカラカラと音がしたのに中には赤い破片は入っていない。 こうして客は相当な金額を胴元に巻き上げられる。 このトリックは巧妙なものであった。 客が取り上げた餅花は、振って音を確かめたのだから、中に破片が入っていた事は間違いない。 だから当たりであるはずであるのに、破片が無くなり、ハズレに変わっている。 その方法は、客に取らせる餅花の中には外側と同じ白い餅花の破片を入れておくのである。 すると、餅花を壊したとき、外側の破片と中の破片が入り交じり、中がカラであった様に見えるのだ。 中の破片が消失するのではなく、他の破片と交じって区別がつかなくなるのだった」 ※推理小説には同類のトリックが何回も使われています。 「樹を隠すには森へ」と言われますが、その「樹」を隠すために「森」を作っちゃう発想です。 そう言えば、殺人を犯すために「戦争」を始めちゃうって奇抜な小説も、あった様な・・・。 「本質はごく単純な事であっても、そこに余分な情報が加えられると、問題が複雑に見える。あるいは意識を本質以外のところへ誤導される。 余分な情報を捨て、問題の本質だけを的確に抽出する事は、しかし、かなり困難なことである」 ※私の好きなシャーロック・ホームズの名台詞にも「ありえないものを消去していけば、その残ったものが真相だ」と言うモノがあります。 もちろん上記で言う様に「問題の本質だけ的確に抽出する事は、かなり困難」なのであります。 「人間の心は比較的簡単に仕掛けられた方角へ誤導される」 ※これで思い出すのは、江戸川乱歩の「目羅博士の不思議な犯罪」です。 私の大好きな短編、推理幻想小説でした。 「虫食い算小説。 ハリイ・ケメルマンの『九マイルは遠すぎる』(永井淳・深町眞理子訳)では、『九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。ましてや雨の中となるとなおさらだ』というわずかこれだけの言葉から推論を重ね、『この話し手は、ある町でワシントンからの電話を部屋で待っていて、ワシントン発ボストン行きの夜行列車の一乗客の事を知らされ、ホテルの部屋を忍び出て、夜間、ハードリー駅まで歩き、早朝の5時に給水のために停車中の列車に乗り込んだ』という結論に達する課程が語られる。 そして、この推論は列車内で起きた殺人事件の真相を言い当てていた。 九マイル(14,5キロメートル)はさほど遠い距離ではないから、それを歩くのは容易ではないという話し手はスポーツマンではない事が分かる。 九マイルという表現は正確な距離を表している。およその距離ならこういう言い方はしない。 話し手が歩いたのは夜中か早朝、十二時から朝の五時までである。それ以外は鉄道やバスの便がある。 夜間歩いたのだから、車で出掛けられない理由がある。 雨中、九マイルは徒歩約4時間の距離である。 始発バスを利用しなかったのはそれまでにどうしても目的地へ到着しなければならなかったからだという事など、わずかな言葉がこれだけ豊富な情報を隠し持っている。 それを一つずつ明らかにしながら推論を重ね、課程や関連のデータを援用し、推論を組み立てると先のような結論が導き出されるのだ」 ※虫食い算とは数式の中に不明の「空白部分」があり、全体からその「空白部分」を導き出す、というモノ。 かように推理小説とは数式を解く作業に似ているのですが、それを特化してしまうと「単なるパズル」になってしまい、小説として面白くないのであります。 「日本の奇術家に良く知られている、俗に『サーストンの三原則』と呼ばれる奇術演技上の心得三箇条がある。 1.あらかじめ演技の内容を話さない。 2.同じ奇術をその場で繰り返さない。 3.種明かしをしない」 ※アマチュア奇術初心者は、これと真反対の道を進むのであります。 つまり。 始まる前にこれから行うマジックについて語り、受けたら何回も繰り返し、最後に得意げに種明かしをするのであります。 「世界で最も古いミステリといわれるものにイソップの寓話がある。 ライオンが歳を取り、体力が衰えて獲物を捕ることが出来なくなったので、洞窟の中に寝て病気に掛かったフリをし、様子を見に傍へやって来る動物を捕らえて食べていた。 キツネだけは洞窟から離れた所で立ち止まり、ライオンに様子を尋ねる。 ライオンがどうして入って来ないのだ、と尋ねると、キツネは、たくさんの動物が入った足跡は見えますが、出てきた者の足跡は一つも見えません。そうでなかったら入るのですが、と応える。 ミステリと呼ぶには素朴すぎるが、物語の中に推理の要素を取り入れたという点から言えば、これを推理小説の萌芽と言う事が出来るだろう。 『アラビアン・ナイト』には、逃げたラクダの特徴を言い当てたため、そのラクダを盗んだ犯人にされるサルタンの息子の話がある。 しっぽがなく、背中には砂糖袋と香料袋を積んでおり、そして片目であるというラクダの特徴を残された足跡から推測したのだが、理由は、ラクダは糞を尻尾でならして歩くのに、ところどころにそれが盛り上がっている。 ラクダが膝をついた場所には道の片方だけにハエがたかっている。 草が道の片側だけしか食べられていない、と言うのであった。 この物語は戦前、国定の『小学国語読本』に採られていた。 近代推理小説の祖に擬せられるのは『モルグ街の殺人』や『盗まれた手紙』で探偵デュパンを創造したエドガー・アラン・ポオであるが、推理の要素を持つ物語の創作はここに見るとおり、それよりはるかに古い」 ※江戸川乱歩は推理小説を「幻想で始まり、合理的解釈で終わる」べきとしました。 私はそこにもう一つ加えたいと思います。 「考える道筋(ロジック)」が今までになく魅力的で、新しく独自な発想があるべき、だと思うのです。 そうであれば、それは面白い推理小説だと思います。 「デール・カーネギーは『人を動かす』の中で、説得する方法の一つに、相手に思いつかせる事を上げている。 『人から押しつけられた意見よりも、自分で思いついた意見の方を、我々ははるかに大切にするものである。 すると、人に自分の意見を押しつけようとするのは、そもそも間違いだといえる。 暗示を与えて、結論は相手に出させる方が、よほど利口だ」 デール・カーネギーは20世紀初頭のアメリカの事業家。 「人を動かす」は彼の有名な自己啓発書。 ※この手の一番下手な例が、CMなどで見られる「そろそろあなたも考えてみませんか?」というヤツです。 下手な例というより、あまりに上から目線「慇懃無礼」さを感じて、私はいつも「嫌悪感」を覚えるのであります。 「去来キョライが芭蕉と連れだって歩いている時、『下臥シタブシにつかみ分けばや糸桜』という巴風ハフウの句が話題になった。 下臥は花の木下で寝る事で、句は『満開のしだれ桜の下に寝て、仰向きながらその枝をつかみ分けたいものだ』という意味である。 この句が基角キカクの撰集『いつを昔』に入集しているのを芭蕉がいぶかるので、去来が『糸桜が十分に咲き切ったありさまをよくいいおせているではありませんか』というと芭蕉は、『いひおほせて何がある』といい放ったという。 すべてを言い尽くしてしまってそこに何が残るのだ。 言葉は言い尽くされた時に果てる。 いいおおせず、句を享受する者の想像にゆだねる空白が発句の余情を生む。 空白こそが一句の生命ではないかと芭蕉は言うのである」 ※「いひおほせて何がある」とは金言です。 「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ螢が身を焦がす」のであります。 これは違うか。 「ヴォルテールの本はたえず検閲に狙われた。 彼の著書が焼き払われるという判決が下った時、ヴォルテールは笑って言った。 ぼくの本は栗とおなじだ。よく焼くほどよく売れる」 ヴォルテールは18世紀のフランスの哲学者、作家。 「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は認める」は彼の有名なセリフ。 ※禁書と言えば、SF、映画好きが思い出すのが、ブラッドベリ、トリフォーの「華氏451(1953)(1966)」であります。 「カイヨウは『遊びと人間』で、遊びを社会学的立場から、 競争(アゴン)、 偶然(アレア)、 擬態(ミミクリ)、 めまい(イリンクス) の四つのカテゴリに分類した」 ロジェ・カイヨウ(カイヨワ)はフランスの社会学者。 ※私は競争・スポーツは苦手で、偶然・ギャンブルは運がなく、めまい・遊園地には酔ってしまうのですが、擬態・芝居は好きなのであります。 小さい頃から「ごっこ遊び」が好きでした。 あなたは何派? 「植物のシネラリアはサイネリアと呼び変えられている。 『シネ』が『死ね』と同音だからである。 『アシ』は『悪し』に通じるから『ヨシ』と言い変え、『スル』は『アタル』といい、『髭をあたる』は慣用語になっている。 すり鉢を『あたり鉢』、スルメを『あたりめ』、スリッパを『アタリッパ』という極端な人もいる。 『サル』を『エテ』と言うのは『去る』を『得て』と言い変えたものである。 『ナシ』は『ありの実』、『塩』は『浪の花』、『おから』は『切らず』など挙げていけばきりがない」 ※「スリッパ」を「アタリッパ」なんて言う人は今まで見たり聞いたりした事はありませんが、「日本において人々は葦を『悪し』に通じ 忌んで『善し』と呼ぶようになる ではなぜ『人間は考える葦(よし)である』と呼ばないのだろうか」で始まる大島弓子の「パスカルの群(1978)」は「名作」でありました。 「戦争が終わったので、メーカーが余ったパラシュート用生地で女性用のパンティを大量に作った。 製品が店頭に並んだ時、パンティに空軍の規則がプリントされたままだった。 『横になったらすぐに誰かに取り外して貰う事。 たたんでいつでも使用できるように準備しておく事』」 ※空軍の規則がプリントされたパンティなんて物があれば、それは今でも結構売れそうな気がします。 「運命はガラスだ。輝くと見る間に壊れる」 ユストゥス・リプシウス。 ※ユストゥス・リプシウスは16世紀のベルギーの哲学者。 「ジョークとトリック」の作者「織田正吉」によれば、警句(アフォリズム)は、しばしば「謎かけ」の形式を採っていると言います。 つまり「○○は△△に似ている。何故なら・・・」というスタイルです。 以下、「ジョークとトリック」で紹介されていた名言を挙げさせて頂きました。 「結婚は鳥かごのようなものだ。 外にいる鳥たちは入りたがり、中の鳥はいたずらに出ようとしてもがく」 モンテーニュ。 ※ミシェル・ド・モンテーニュは16世紀のフランスの哲学者。 この手の言い回しは、大昔から言われています。 隣の芝生は良く見える、のであります。 「法律はクモの巣に似ている。 小さなハエは捕らえるが、ジガバチやスズメバチは破って逃げる」 ジョナサン・スウィフト。 ※ジョナサン・スウィフトは17世紀のアイルランドの風刺作家で、「ガリバー旅行記(1726)」が有名です。 皮肉屋の彼が、アイルランド人の子だくさんぶりを揶揄し「食料にしてイギリスに輸出しよう」と論文に書いたのは有名な話です。 「女はきみの影に似ている。 追いかければ逃げだす。逃げればついてくる」 シャンフォール。 ※セバスチャン・シャンフォールは18世紀のフランスの文学者。 しっかし、確かに追いかければ逃げるけど、逃げても付いて来ないなあ。私の経験的には。 「恋はハシカに似ている。 歳を取ってかかるほど重くなる」 D・W・ジュロルド。 ※「それはやがて致命傷になる」と続けたのは誰でしたっけか? 「人生は一箱のマッチに似ている。 重大に扱うのは莫迦莫迦しい。 重大に扱わなければ危険である」 芥川龍之介「侏儒の言葉」。 「侏儒シュジュ(矮人、見識のない人の事)の言葉」は芥川龍之介の警句集。 ※この一行目の「人生」を「女」に置き換えても成り立ちます。 だなんて酷い事を言ってるヤツは誰だっ! 「人生は落丁の多い書物に似ている。 一部を成すとは称し難い。 しかし、とにかく一部を成している」 芥川龍之介「侏儒の言葉」。 ※私は常々自分は落丁の多い人間だと思うのであります。 その欠落したページを埋めようとした事もありましたが、ま、今更どうしようもないのであります。 うん。 「正義とは武器に似たものである。 武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。 正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである」 芥川龍之介「侏儒の言葉」。 ※「♪良いも悪いもリモコン次第」なのであります。 「自由は山巓サンテンの空気に似ている。 どちらも弱い者には堪えることは出来ない」 芥川龍之介「侏儒の言葉」。 ※山巓とは山の頂の事。 「気韻は作家の後頭部である。 作家自身には見えるものではない。 もしまた無理に見ようとすれば頭の骨を折るに了オワるだけであろう」 芥川龍之介「侏儒の言葉」。 ※気韻とは品格、気品の事。 「子供の一人ある夫婦が離婚することになり、それぞれ子供は自分のものだと主張して言い争った。 『自動販売機でお金を入れたらジュースの缶が出てくるだろう?』 『ええ』 『そのジュース缶は誰のものだ?』 『もちろん、お金を入れた人のものよ』 『だったら、子供は夫のものだ』」 ※日本と外国、歩いていて一番違う風景は「自動販売機があるかどうか」だと思います。 特に田舎。 「戦中、『ゼイタクは敵だ』という標語には一字を足して『ゼイタクは素敵だ』、『足らぬ足らぬ工夫が足らぬ』からは一字を取り去って『足らぬ足らぬは夫が足らぬ』としたパロディが生まれた」 ※荒俣宏の「大東亜科學綺譚」を読むと、戦時中と言えども、みんながみんな1日24時間ずっと「目が吊り上がっていた」ワケではない事が判るのであります。 「『牧師』という言葉はイエスが自分を羊飼い(牧者)に例えた比喩によっている」 ※ああ、そう言う事だったのか。 勉強になるなあ。 「伊勢音頭ヘブライ語説。 日本語の中にはヘブライ語が入っていると考える人も多い。 キリスト教牧師の川守田英二は『日本ヘブル詩歌の研究』で、『伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ ヨーイヨイ 尾張名古屋は ヤンレ 城で持つ ササ ヤートコセ ヨーイヤナ アリャリャ コレワイセ コノナンデモセ』という伊勢音頭の囃子言葉はヘブライ語の『サ、サ、ヤー、トオー、シュル、ヤーエ、ヨハナン、アハレリャー、コレ、ワイシエ、コーノ、ナギイド、モシュー』であり、『汝ら喜び悦べ、エホバは仇敵を(海に)投げ給えり。エホバは憐れみ深く在すなれ、我エホバを讃えまつらん。彼呼び出し、かつ救い給えり。彼は樹タて給えり。指導者のモーゼを』という意味だと言った」 ※明治時代、「日ユ同祖論」と言うモノが流行っておりました。 文字通り「ユダヤ人と日本人は同じ先祖を持つ」とし、「だから日本民族は凄い!偉い!」とする「富国強兵政策」のバックボーンになったモノでした。 もちろん今では「ムー的」な「オカルト」でしかないのですが、それでも「ダビデの星」と「五芒星」の類似性とか昔から「おお!」と思う、基本「オカルト好き」な私なのでありました。 「あるホテルのボーイが、泊まり客からホテルのバーはいつ開けるのか問い合わせの電話を受けた。 『午前十時でございます』 一時間後、また同じ客からバーはいつ開けるか電話でたずねてくる。返事は同じ。二時間後、また同じ電話がかかった。 ボーイは我慢の限界に達し、『十時までお客様をバーにお入れすることはできません!』 すると電話の声が、『バーへ入る?おれは出たいんだ!』」 ※この「閉じ込められた男」の話は、私が大昔(その頃、私は大阪に1年間居たのですが)、六甲の温泉ホテルに泊まった時、酒飲んで酔っぱらって忍び込んだ深夜1時過ぎの大浴場に閉じ込められ(私が居る事を知らずホテルの見回りが浴場の鍵を閉めたのです)、朝まで浴場に監禁されていた事を思い出します。 季節は雪降る真冬の事でした。 その浴場は不運な事に「沸かす温泉」で、電気が止められた途端、どんどん冷めていったのです。 大浴場から窓を開いて裏庭に出る事は出来ましたが、全裸の私は(脱衣室へ出る扉が閉められていたのです)零下になった外に出る度胸はありませんでした。 どんどん冷えていく浴室。 震えながら全裸の私。 私は吉田拓郎の「人間なんて」と、民謡の「ドナドナ」を一晩中口ずさんでいました。 結局・・・。 そこから抜け出す事が出来たのは、翌朝、ホテルの見回りが再びやって来た早朝の6時の事でした。 私は今まで「死ぬんじゃないかしらん?」と思った事が数回ありますが、あの時も「これはもお駄目かもなあ」と思ったのであります。 「台風シーズンに、ある放送でアナウンサーが『台風は幸い北海道へそれました』といって北海道の人たちを怒らせた事があるという」 ※「幸い」はないだろ「幸い」は。 がはははははは。 「塩のおいしい食べ方を知っているか?」』 「どうするんだ?」 「ジュウジュウ焼いたステーキに振りかけるんだ」 ※高い肉は塩・胡椒だけで本当に旨いのであります。 そう言えば、昔、肉屋の息子が知人にいて、キャンプに行く時には必ず彼も誘われていましたっけ。 「私が猫を相手に暇を潰している時、実は猫の方が私を相手に暇潰しをしているのではないか」 モンテーニュ。 ※本当にそう思います。 そして彼・彼女らは自分が満足すると、勝手にフイっと居なくなってしまうのであります。 「アラビアン・ナイトのアリ・ババと四十人の盗賊に次のような場面がある。 盗賊がアリ・ババの家の戸口に目印として×印をつけていく。 アリ・ババの兄カシムの家にいる賢い召使いのモルギアナは、誰かが何かの目的で目印をつけた事を悟り、目印を消すため、近所の家の戸口という戸口に全部×印をつけてしまう。 目印を目印としての効果を無くすためには、目印を消すのではなく、目印を増やすというまったく逆の方法があることをアラビアン・ナイトは教えてくれる」 ※世界中が全員「吸血鬼」になってしまったら、残った人間が「怪物と呼ばれる」としたのは、リチャード・マシスンの「地球最後の男(1954)」でした。 「考えてみよう。 全ての予言は、まったく当たらなければ全部当たるのと同様に価値がある」 阿刀田高「当たらぬも八卦」。 ※阿刀田高は小説家。 「絶対嘘をつく人」が判れば、これは重要な情報であります。 同様「絶対当たらぬ予知夢を見るエスパー」ってのも貴重です。 とりあえず今回はここまで。 本エッセイの引用元となった織田正吉「ジョークとトリック」はとても面白い本です。 各章が「1)先入観の構造」「2)だまされやすさの研究」「3)隠す文化」「4)似ることの力」「5)しゃれのひろがり」「6)逆に見る」と別れており、いずれもとても興味深い考察がされています。 もし機会があれば、ぜひ一度、読まれる事をお勧めいたします。 昔の日記からの抜粋なので、記述間違いがあるかも知れません。 その場合は、間違いを教えていただければ、これ幸いなのであります。 |
ご意見、ご感想はこちらまで |