SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.113
「漫画における『ない』けど『ある』(1)」
について

(2010年4月18日)


漫画というのは『ない』事による表現形式だと思います。
描かない事によって、表現しない事によって、成立している創作物だと思うのです。

それは漫画本来が持っている「記号化」なのであります。



一時期、手塚治虫はよく自虐的に「僕の漫画は記号だから」と語っていた事がありました。
それは「笑っている」とか「怒っている」とか「走っている」とか「佇んでいる」という「記号」としての絵の羅列と、「ふきだし」の中の台詞、描き文字である「擬音」により、全体が構成され、「物語」を作るからです。

手塚が「僕の漫画は記号だから」と語っていたのは、60年代に「劇画」という、それまでなかった漫画形式が台頭して来た頃の事でした。
たしかに生まれたばかりの「劇画」は「反手塚」を志していました。
手塚漫画が持つ「記号としての絵」から一歩押し進め、「泣き顔だって一種類じゃないだろう」「怒った顔だっていつも同じじゃないだろう」としたのです。
さらには「怒りながら実は泣いている」という様な複雑な感情も表情していったのです。
それは「子供向けの漫画」が「青年・大人にも読める漫画」になるために必要な手段だったのです。

この「劇画」は一世を風靡し、「手塚の漫画は幼稚だ」という間違った認識を生み、上記の手塚自身の「僕の漫画は(しょせん)記号だから」などという一種諦念にも似た台詞を語らせるに至ったのであります。
今では珍しい事ではない「大学生・大人なのに漫画を読む」事が話題になっていた時代の話です。

しかしこれは、後に「劇画」も「漫画の一形態」であると気つけば、「劇画」もしょせん「記号の羅列」である事が判るのでした。
「記号」で漫画を描いていたのは手塚治虫(とそれ以前の漫画家も)だけではなく、新しく生まれてきた「劇画」も、全ての漫画がやはり「記号」だったのです。


例えば、これはラフに描いた丸ですが、



ここに目を(単に二つの丸を)描けば、



人の顔になるのであります。
この絵には実際の人の約束事、「眉毛」も「鼻」も「口」も「耳」も、いや「髪の毛」すらないのに、私たちはこの絵を「人の顔」と推測し理解するのです。
これが漫画という表現形式の基本をなす「記号化」なのであります。
こういった「記号」によって、全ての漫画は出来上がっているのでした。

「この絵が何かのキャラクターだとは判るけど、人間の顔とは思わないんじゃないか?」と言う方もいるかも知れません。
確かにこの絵には「人」としての「属性」が少し足りないかも知れません。
しかし、この様な髪の毛を追加すれば、



これは明らかに「人間の男」にしか見えず、こんな髪の毛を描けば、



「人間の女」にしか見えないのであります。

もちろん、世の中には「短髪の女性」もや「長髪の男性」もいるでしょう。
しかし、上記の様な絵を見れば人は単純に「男」と「女」と判断するのです。
これが漫画の「記号化」であります。

さらに、髪の毛じゃなく「耳」を描けば、



「人」ではなく「猫」となるのであります。

それでも「あ、いやいや待て待て。上の絵はやっぱり短髪の女性、真ん中の絵は長髪の男性、最後の絵は猫じゃなく犬とか狐とかフェネットかも知れないじゃないか」と食い下がる人もいるかも知れません。

しかし、「短髪の女性」「長髪の男性」「犬か狐かフェネット(もちろんそれ以外でも良いのですが)」と思わせるためには、返って反対に追加で「他の要素」が必要となってくるのです。
それが無い限り、やはりこの絵は「男」「女」「猫」なのであります。

もっとも、上の絵は「猫にしては目が丸過ぎ」ますので、目を「弓形」にした方がもっと「猫」としての「記号」が出るかも知れません。



さらにここに「鼻」「口」「髭」「模様」等を描き込んでいけば、



もっと「猫」っぽくなって行くのでしょうが、やっぱり「猫」としての「記号」は、最初の絵で「十分」だと私は思うのでした。


この様に、漫画というのは「ない」ものを「ある」と見立て、見た人が自分の頭の中で「推測」「補完」して成り立っているのであります。



この話、書いてて面白いので続きます。
はい。




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