SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.121
「1977年」について

(2010年7月24日)


「1977年」というのは今にして思えば、実に「記念すべき年」でした。



まず「SF者」なら真っ先に思い浮かぶのは、「ジョージ・ルーカス」の「スター・ウォーズ」でありましょう。

日本の公開は「1978年」ですが、本国アメリカの公開は「1977年」なのです。
今では考えられませんが、本国公開から日本は「1年も待たされた」のであります。

それが良かったのかも知れません。


当時の映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」で「1977年」初っ端から、「何やらもの凄いSF映画がアメリカで公開されるらしい」「タイトルは『惑星大戦争』と言うらしい」等々の記事が出始めたのです。
東宝のSF映画「惑星大戦争」は、そのタイトルをさっそくパクり、本家が日本で公開されるより前(1977年暮れ)に急遽「突貫工事して完成させてしまった」超迷作でした。
本家スター・ウォーズの方は、その後も、「砂漠の様な惑星で、鼻のない象のような動物に乗っている白い装甲服を着た宇宙兵士」や「両脇が無機質に凸凹したメカニックな断崖になった峡谷の間を、超スピードで飛んでいるX字翼の宇宙船」「今まで見た事のないような細かいディテールに溢れた操縦席の中に座っている、船長と青年と変な髪の毛をした娘と、ロボットと、ゴリラの様な犬の様な宇宙人」等々のスチール写真が雑誌に掲載されたのです。

日本公開まで1年も待てない金に余裕のあるSF作家や映画評論家たちが、大挙してハワイやロスに「スター・ウォーズ」を観るためだけに渡米したのも「1977年」の春過ぎの出来事でした。
そして帰国した彼らは一斉に我先と「このSF映画は凄いっ!」と各メディアに語り始めたのでした。
「何せ最初からモノ凄いんだ!オープニング・シーンで宇宙船が腹を舐める様にスクリーンに入って来るんだけど、超々超ド級な巨大宇宙船なモンだから何処までも永遠に、何処までもそれが続いて行くんだよっ!」。
これらの記事は当然、私らSFプロパーたちを皆「みみみみ観てぇ〜!!!」と大いに狂乱させたのでした。

私は映像も見ていないのにさっそく、その評判に異常に興奮し、今で言うところの「萌え〜」になってしまったのです。
当時珍しかった都内の輸入専門レコード屋を探して見つけ出し、「スター・ウォーズのオリジナル・サントラ」を買ってしまったほどなのでした。
CDもなくアナログ・レコード「LP盤」の時代。
私はまだ「レコード・プレイヤー」を持っていなかったのに、です。


この年は「もう一つの名作SF映画」、「未知との遭遇」が公開された年でもあります。
(日本ではこれも1978年公開)。

データを見てみると、

「スター・ウォーズ」。
1977年5月25日アメリカ公開。
1978年7月1日、日本公開。

「未知との遭遇」。
1977年11月16日アメリカ公開。
1978年2月25日、日本公開。

となっています。

本国では「スター・ウォーズ」の方が早く公開されたのに、日本では「未知との遭遇」の方が早く公開されました。
本国「スター・ウォーズ」の爆発的ヒットの影響なのでしょう。

しかし、申し合わせたワケでも無いでしょうに、ルーカスとスピルバーグが同じ「1977年」に歴史に残るSF映画を撮ったのも、何か非常に感慨深いところがあります。

私はどちらも大好きなSF映画なのですが(これは当時の映画評論家、SF作家たちでも大論争になりました)、どっちかと言えば、「未知との遭遇派」でした。
「未知との遭遇」の方が「詩情性」があって好きなのです。
「ハインラインとブラッドベリ、どっちが好き?」と言われて、これもどちらも好きなのですが、「うーん・・・。ブラッドベリかな」と応えるのと一緒なのであります。

「未知との遭遇」で特に好きなのが、劇中最初にUFOがハッキリ姿を現すシーンです。
深夜のインディアナ州のとある山道。
主人公の一人である電気技師「ロイ・ニアリー」が何かを探し求めて彷徨い歩いている。
次の瞬間!その曲がりくねった道の向こうから道に沿ってコーナーを回がり、3機の光り輝く物体が出現する、その場面です。
私は当時(いや今でも観る度に)、ここでボロボロと泣いてしまうのであります。
あまりにも格好良くて。
今まで観たかったけど観られなかたかったシーンが、見事に再現されていて。
私は「こんなシーンが観たかったんだ!」と震えたのです。


「1977年」の映画の話を続けます。

日本映画では、「祟りじゃあ〜」の惹句(キャッチ・コピー)で有名になった松竹映画「八つ墓村」も、この年「1977年」の公開でした。
「金田一耕助」が「渥美清」である事を除けば(松竹だから当然かも)、丁寧に作られたよく出来た映画だと思います。
しかし、前年翌年と続けて公開された角川映画の「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」「獄門島」の「金田一耕助=石坂浩二」のイメージがあまりにも強烈過ぎて、「金田一が渥美清ぃ〜?」と思ったのでした。
「天は・・・我々を見放した・・・!」の「八甲田山」もこの年です。
当時、日本映画界はこうしたコピーで競っていたのでした。


アニメ映画で言えば、TVシリーズの総集編「宇宙戦艦ヤマト」が劇場公開されたのが「1977年」でした。
初日特典の「セル画」が欲しくて、友人と「池袋の映画館」に徹夜で並んだのも、今となっては懐かしい思い出です。
もっとも私が貰ったセル画は「島大介」という実に微妙なモノでしたが・・・。
「サブカルチャー雑誌」としてスタートした「月刊OUT」が創刊されたのも「1977年」です。
何故か第二号からは「宇宙戦艦ヤマト」を特集し、尋常じゃないほど売り上げを伸ばしたのも話題になりました。
以降、「月刊OUT」はサブカル雑誌ではなく「アニメ雑誌」の道を歩み始めます。


TVアニメでは「あらいぐまラスカル」が始まり、「ルパン三世」の「第2シリーズ」が始まったのも「1977年」でした。
私は「カラオケ」はあまり行かないのですが、それでも、たまに行く機会があると「ラスカルの主題曲」が無性に歌いたくなるのです。
あの「♪白詰草の 花が咲いたら さあ行こう ラスカル♪」ってヤツです。
タツノコの「ヤッターマン」もこの年のアニメでした。


TVドラマで言えば、NHKの「少年ドラマシリーズ」の「11人いる!(萩尾望都)」「未来からの挑戦(眉村卓)」「幕末未来人(眉村卓)」がこの年「1977年」でした。
海外TVドラマでは「バイオニック・ジェミー」や「チャーリーズ・エンジェル」もこの年です。
今では「戦闘美少女」が日本アニメの伝統芸の様に言われていますが、「1977年」の当時はアメリカのモノだったのです。


漫画では松本零士「銀河鉄道999」や、竹宮恵子「地球(テラ)へ」、鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」が始まったのも「1977年」の事でした。
私の大好きな漫画家「大島弓子」の大きな転換期となる「バナナブレッドのプティング」「夏の終わりのト短調」を、「月刊ララ」に発表したのもこの年でした。
翌年、彼女は漫画史上に残る大傑作「綿の国星」を発表するのです。


小説では「スティーブン・キング」の「シャイニング」、「J・P・ホーガン」の「星を継ぐもの」が「1977年」でした。
「星を継ぐもの」は今でも大好きなSF小説です。
「月面基地で5万年前の人間の遺体が発見される」というミステリーから始まる、とても面白いSFでした。
何故未だに誰もこれを映画化しないのか、私の長い間の疑問なのであります。


コンピュータ関係では雑誌「ASCII(アスキー)」が創刊され(一時期、この分厚い雑誌を愛読していました)、「アップル・コンピュータ」が創立されたのも「1977年」の事でした。


音楽では、「冨田勲」の「惑星」が発売された年でもありました。
原曲はご存知「グスターヴ・ホルスト」のクラシックで、冨田はシンセサイザーでこの名曲をリメイクしたのです。
「平原綾香」の「Jupiter」がヒットする遙か「26年前」の事でした。
当時、私の後輩がレコードからテープにダビングしてくれたのを、毎日飽きる事なく聴いていたモノです。
3人のアイドル・グループ「キャンディーズ」が、「普通の女の子に戻りたい」の名台詞を残して解散した年でもあります。
「ピンク・レティー」の「UFO」もこの年でした。



こうして大雑把に見てみると、「1977年」は「SFの年」だったと思います。
多分、もう二度と戻ってこない我が良き「SFの年」なのです。

SF専門雑誌「スターログ日本版」が、満を持して創刊したのが翌「1978年」だった事からも、「1977年はSFの年」だったと判ります。
「1977年」はスターログの「熟成期間」でありました。


そう言えば、全ての宇宙大好き少年少女たちを熱狂させた、太陽系及び外宇宙探索を目的に「ボイジャー」が打ち上げられたのも「1977年」の事でした。

やっぱり「1977年」は「SFの年」だったのです。




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