SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.134
「そこはそれ、パワーバランス」
について

(2011年12月3日)


これは映画「ガメラ2 レギオン襲来(1996)」で、「水野美紀」演じる「穂波碧」が言う私の大好きなセリフであります。

「レギオン襲来」は「平成ガメラシリーズ」と呼ばれる三部作、
一作目「ガメラ 大怪獣空中決戦(1995)」、
二作目が「ガメラ2 レギオン襲来(1996)」、
三作目「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒(1999)」、
の真ん中にあたります。

監督は「金子修介」、脚本は「伊藤和典」、特撮監督は「樋口真嗣」の三人で、これはシリーズ中ずっと変わらず、本三部作が成功した(ま、興行的には苦戦したみたいですが)理由の一つだと思います。


1997年。
正月も過ぎ、再び穏やかな日常に戻ったある冬の日。
流星雨の幾つかが燃え尽きず隕石のまま地表、三陸沖と札幌市郊外に落下する。
その後、札幌を中心に電離層の異常が計測され、続いてオーロラの発生、ネット回線網の不調と異変が連続する。
挙げ句、札幌南北線が奇怪な生物の襲撃を受け、薄野(すすきの)の百貨店「ロビンソン」の屋上に醜悪な巨大花が咲く。

この一連の怪事件の真相に気づいたのは、札幌青少年科学館の若き女性学芸員「穂波碧」、
自衛隊大宮化学学校研究部の二等陸佐「渡良瀬佑介(永島敏行)」、
NTT北海道のNOC技術者「帯津(吹越満)」の三人だけだった。


映画では地下鉄の怪生物も、デパートの巨大花も、地球を自分の適した環境に造り替えようと(テラフォーミング)する、星間生物「レギオン」の仕業である事が判ります。
それを阻止しようと「ガメラ」が出現。
一端は札幌から駆逐するのですが、その後、「レギオン」は仙台に逃げ延びてしまいます。
「レギオン」の脅威に気づいたものの、一介の市井の人に過ぎない三人は、これから何をすべきか悩みます。
その作戦会議のために、夜、札幌市内の「穂波碧」の実家「穂波薬局」に集合します。
「穂波碧」は「穂波薬局(ベンガル、角替和枝)の大切な一人娘。
突然2階の娘の部屋に上がり込んだ見知らぬ二人の男に、両親は気が気ではありません。

互いに持ち寄った資料と体験を元に、三人の議論は進みます。
地下鉄に現れた「幼体レギオン」はシリコンを好む。
シリコンは土を分解し生成出来る。
その際、酸素が発生し、その酸素は巨大花の大爆発を起こし「種子」の周囲への拡散に役立つ。
「でも、レギオンは土が少ない薄野を繁殖地に選んだ・・・なぜ?」
三人の推理は後一歩の所で止まってしまいます。

「ん〜・・・。酒でも欲しい気分ですね」
「あるよ」
「え?」
「ゲド戦記の後」

ここも上手いシーンですが、それに関しては後述します。
「穂波碧」の部屋、本棚の引っ張り出した「ゲド戦記」の後にウィスキーが隠されていました。

「うちの父、割とうるさくて」
「やっぱり、不味かったんじゃないですか。ワケも判らん男二人も部屋に上がり込んで」
「穂波」笑って、
「そこはそれ、パワーパランス」

ここです。
私はここの「そこはそれ、パワーバランス」のセリフに、脚本家「伊藤和典」の上手さを感じるのであります。

ちなみに上記の推理会議のゴールは、「レギオンは電磁波で会話する生命体で、携帯電話やネット等の電磁波に溢れた『都会』に仲間、あるいは敵が集結していると勘違いしたから」なのであります。



大映の平成ガメラ・シリーズが作られた「1995〜99年」は、東宝の「平成ゴジラ・シリーズ」の休止時期と重なっていました。
その時期、東宝は「平成モスラ・シリーズ」を作っていたのです。

「鬼の居ぬ間に」では無いでしょうが、「ゴジラを作りたいなあ」と思っていた「金子修介」も「伊藤和典」も「樋口真嗣」も、大映のガメラにその「代用」を見出したとしても責められない事でありましょう。

平成ガメラ・シリーズ(1995〜99年)以降も、三人は映画の第一線で活躍しています。
が、平成ガメラ・シリーズ時ほどの「輝き」を、三人とも、私は感じられないのです。
それほど平成ガメラ時の、監督「金子修介」、脚本「伊藤和典」、特撮監督「樋口真嗣」の、それこそ「パワーバランス」が良かった証左だと思います。
映画という「総合創作物」が小説や漫画などと違い、いかにその時のスタッフ(通常は監督、脚本、カメラ、美術。特撮映画の場合は監督、脚本、特撮監督)に掛かっているか、と言う事が判ります。


「そこはそれ、パワーバランス」の話に戻ります。
「レギオン襲来」では「三つのパワーバランス」が描かれています。

まず一つ目。
「嫁入り前の娘」の部屋に男が「二人」が入り込む事で、「パワーバランス」の均衡が取れているのであります。
「嫁入り前の娘」の部屋に「男一人」が入ったとしたら、これはもう両親にとっては「パワーバランス」が崩れている事になります。
最も、「男二人」でも両親は心配していましたけども。
これは劇中「そこはそれ、パワーバランス」のセリフ本来の意味であります。

次。
「レギオン襲来」では、地球を自分に合った環境に勝手に造り替えようとする宇宙生命体「レギオン」に対抗し、地球側の環境を守ろうとする地球の守護神「ガメラ」が戦う事で、「パワーバランス」を取ろうとする物語でありました。
「ガメラ」は地球の「均衡する者」なのです。
この「パワーバランス」の話は、レギオンを倒した後のエンディング、平和に戻った薄野を歩く「穂波碧」と「帯津」の会話で示唆されています。

「人間は結局、またガメラに救われたんですね」
「ガメラが救ったのは人間じゃないと思う。この星の生態系なんじゃないかな」
「それじゃ・・・もし、人間が生態系の破壊を続けるとしたら・・・」
「ガメラの敵には。なりたくない・・・よね?」

このラスト・シーンは脚本家「伊藤和典」が一番残したい「決めセリフ」だと思います。
「映画にテーマは必要ない」と言う方がいらっしゃいます。
私も常々それに賛同しています。
「映画にテーマは必要ない」、あるとすれば脚本家や監督が2時間弱の物語の中で「一番決めたいセリフ」なんだ、と思うのです。
「ガメラ」は「レギオン」であろうと「人類」であろうと、「パワーバランス」を乱す者を駆除する者なのでした。

そして三つ目の「パワーパランス」。
「穂波碧」が「そこはそれ、パワーバランス」を言ったシーン。
男たちが欲しがった「ウィスキーのボトル」は、彼女の本棚「ゲド戦記」の後に隠されていました。
今ではジブリの「超駄作アニメ」でしか知らない不幸な方もいらっしゃるみたいですが、児童文学「ゲド戦記」は「ハイ・ファンタジー」の大傑作なのであります。
原作を読んでいる方には判ると思いますが、「ゲド戦記」は「光と影」の「パワーバランス」を描いた物語でした。
「光と影」「実像と虚像」「本質と嘘」、そのどちらかだけでも駄目。
どちらかだけでも不十分、としたお話でした。

「光と影」両方揃って「全き(まったき)モノ」、すなわち完成されると言う考え方は、これも私の大好きなファンタジー映画「ダーククリスタル(1982)」でも描かれていました。
(〈ダーククリスタル〉に関しては、いつかエッセイを書きたいと思っているのでした)。

つまり、「ガメラ2 レギオン襲来」の「穂波碧」のセリフ「そこはそれ、パワーバランス」には少なくとも三つの意味があるのでした。



脚本家や監督が目指す目指さないに関わらず、映画という物語は「多義的」に出来上がっているモノであります。

「2時間弱の映画」で「2時間弱の意味」しか持っていない映画は、「ツマラナイ映画」だと思います。

「2時間弱の映画」でも「3時間以上」の、いや、「半日ぐらい」の意味を持っていて欲しいと思うのです。
中には「2時間弱の映画」でも「一年ぐらい」の意味を持っている素晴らしい映画もあるでしょう。
希有な例として「2時間弱の映画」でも「一生分ぐらい」の意味を持っている傑作・名作映画もあるでしょう。

「そんな映画あるかいっ!」と言う方もいらっしゃるかも知れませんが、少なくとも私にとってキューブリックの「2001年 宇宙の旅」はそんな映画でした。
黒澤明の「七人の侍」もそんな映画でした。

今日日の映画は「2時間弱の映画」は「2時間弱の意味」しか持っていなく、悪くすれば「2時間弱の映画」なのに「30分ぐらい」の意味しか持っていないモノも多いのであります。

また、これは映画に限った事ではなく、全ての創作物は「多義的」「多層的」であるべきだと私は思います。
「微笑した美女」の絵が、「微笑した美女」だけの意味しか持っていないとしたら、それは「ツマラナイ絵画」だとは思えませんか?

さらに言えば。
創作物に限らず、全ての物事は「多義的」に見るべきだと思うのです。



また、「そこはそれ、パワーバランス」の話に戻します。

全ての物事は結果的に「パワーバランス」を取るべき・取られるべきだと思います。
「人生塞翁が馬」。
悪い事があれば良い事もある。
もちろん、良い事があれば悪い事もあるのです。

え?
私の超不定期雑記帳は「漫画」や「映画」や「ミステリー」や「模型」や「アニメ」や「食べ物」や「昔話」や「吸血鬼」や「名台詞」や「SF」や「児童文学」や「夢」や「日常記録」や「妄想」や「病気」や、ジャンルの統一が取れていなく文章も短かったり長かったり、いつアップされるかも判らずメチャクチャですって?

でも、さ。
それも、ほら。

「そこはそれ、パワーバランス」。




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