マーシーが亡くなったのは8年前の七夕の翌日、2004年(平成16年)7月8日の事でした・・・。 遙か大昔、私が大学生の頃の話。 私は「漫画研究会」というサークルに入っていました。 そして、私が2年生の時、1年生のマーシーが漫研を訪ねて来たのです。 しかし私は法学部、マーシーは経済学部。 当時、経済学部には漫研が無く、両学部が近いという事もあり、法学部の漫研を訪ねて来たのです。 間もなくして経済学部にも漫研が出来、仲間内でアニメーション上映会等を観に行ったり、互いの学祭に行ったりはしていましたが、私とマーシーは次第と疎遠になっていくのでした。 |
もちろんマーシーは漫画を描く時のペンネームです。 名の由来は「チャールズ・M・シュルツ」の昔の新聞漫画「ピーナッツ(スヌーピーで有名)」の登場人物「マーシー」から、マーシー自身が付けた名前です。 がさつな姉御肌「ペパーミント・パティ(ピーナッツで私が一番好きなキャラクター)」といつも一緒にいる、小柄で眼鏡を掛けた女の子の名前が「マーシー」なのでした。 |
小柄で眼鏡を掛けている容姿を、自分にダブらせたのかも知れません。 個性豊かな「ピーナッツ」の中でも、実は一番の「賢者」である事に憧れていたのかも知れません。 また、当時、経済学部には同姓の先輩がいて(彼は経済漫研の最初の部長となり、マーシーは副部長となりました)、それとも区別したかったのかも知れません。 |
大学の漫研は大きく二つのタイプの人間に別れます。 「漫画が好きな人」と「漫画を描くのが好きな人」です。 もちろん、皆「漫画好き」が漫研に入って来ますので、図式化すると、 「漫画が大好き」⊇「漫画を描く人」となるのでしょう。 マーシーも私も後者でした。 |
「漫画家になれないと気づくのに、4年間もかかってしまった」 これは私が大学の卒業時に出した「漫研卒業記念誌」に書いた私のセリフです。 このセリフ通り、卒業とともに私は漫画とは違う道に進みました。 しかし、マーシーは卒業後も漫画を描き続けていたのです。 マーシーは卒業後にデザイン会社に就職しながら、漫画同人誌に漫画を描き続け、一時期、商業誌にも描くようになっていました。 1992年(平成4年)には作品集も発刊され、マーシーの漫画の熱心なファンは、今でも少なからずいるのでした。 |
2000年を前に、何十年ぶりにマーシーと会う機会が生まれました。 法学部漫研の「OB会忘年会」での事です。 2000年以降は、私が本サイト「SYU'S WORKSHOP」を開設した事もあり、大学時代ぶりに親しく話せる友人となっていたのでした。 |
マーシーは多くのペンネームを持っていました。 「マーシー・青樹」「まぁし」「中江紀子」、また、2001年以降は創作活動を漫画から「ペーパークラフト」に移し、「青木なる吉」とも名乗っていました。 マーシーの創るペーパークラフトは、独特で魅力的な世界観を持ち、単なる「紙で立体物を創る」以上の、とても素晴らしいアート作品でした。 |
2002年の夏は「猿島」へ海水浴に行きました。 「猿島」は神奈川の三笠桟橋から小さなフェリーで10分ぐらいの場所にある、「東京湾に浮かぶ無人島」です。 都心から近い無人島という立地条件もあり、今までにも数多くの映画やTVでロケ地となっていました。 「仮面ライダー(1971〜73)」や「松田優作」の「甦る金狼(1979)」でも使われていた事を、私はマーシーから聞いたのでした。 この年は「逗子」へ再び海水浴に行き、また、マーシーのクラフト展を観に行きました。 |
2003年には「鎌倉」へ海水浴に行きました。 別に海で泳ぐでもなく、単に浜辺に寝そべって、ビールをしこたま飲み、煌めく海や、蒼く広がる空、子供たちの歓声と、女の子たちの笑い声を聞くのが、ただただ楽しかったのです。 |
マーシーは会社を辞めたり、再就職したり、離婚したり、引越したり、いろいろと変化する自分の人生を、別に気に病むでもなく、気まま勝手に暮らしている様子なのでした。 ビールを飲みながら、そんな話を聞くのが楽しかったのです。 何故か、お互い「漫画」の話はあまりしませんでした。 それでも、私が時々出す「逆柱いみり」なんてマニアチックな漫画家の名前も、しっかり知っていて「おお」と感心するのでした。 |
2003年は他にも、中野の「台湾料理屋」に行ったり、アニメーション上映会に行ったり、横浜に「ムットーニ展」を観に行ったりしました。 2004年の1月には、漫研時代の共通の友人がブラジル在中の伯父を訪ねて南米旅行するというので「壮行会」も開きました。 しかし、楽しかったのはその年の、2004年立春までだったのです。 |
2004年(平成16年)2月14日にマーシーから貰ったハガキです。 私は最初、ここに書いてある「悪性リンパ腫」というのがどんな病気か判りませんでした。 調べてみると「悪性リンパ腫」とは「血液の癌」と知り、私はとても吃驚したのです。 次のマーシーのハガキは、さらに衝撃でした。 |
狼狽した私は、今まで電話した事のないマーシーの実家に電話し、それまでの経緯を詳しく訊いたのです。 その直後、マーシーから電話がありました。 一瞬、私は「あ。これは全部、冗談だったんだ」と安心したのですが、マーシーの苦しそうな息づかいの「今、病院から電話してるんスけど」に、「やっぱ本当なんだ」と再びショックを受けたのでした。 |
しばらくして、マーシーから「病院に見舞いに来ても良い」の許可が出て、私は何回も見舞いに行きました。 状況をしばらく見て、漫研OBの人たちにもマーシーの事を伝えました。皆一様に驚いた様子でした。 行ける者は実際に見舞いに、遠く離れた地方に住む者も見舞いハガキを出していました。 |
多分。 それ以降、マーシーは日々訪れる昔懐かしい見舞い客に、そして反比例して悪化する自分の体調に、嬉しさと共に、ちょっと苛ついていた様な気が私はするのです。 |
私は昔からパソコンで日記を付けています。 ここに記すのは2004年(平成16年)6月24日(木)AM3時20分過ぎに見た夢の話です。 私は特に気になった「夢日記」を記しているのです。 今日の夢。 まだ、みんな若い頃の話だ。 大学時代の二十歳ぐらいの話だ。 夕刻、飲み会に行くため、皆で街中で待ち合わせしている。 一人二人と集まって来て、全員が揃うまで雑談をしている。 旅行の話をしていて、今度あそこ行こう、いや何処が良いと、賑やかだ。 今度、マーシーがKと京都に行く計画を立てていて、一緒に行きましょうと誘われる。何でも映画村を観たいのだと言う。 行こう行こう。 そうこうしている内に全員揃い、暗くなった街を居酒屋目指して、ゾロゾロと歩いて行く。 突然、マーシーが○○新聞読みました?と訊いてくる。 何でもマーシーが今集めている食玩ヘリの「277タイプ」の実物写真が載っていたのだと言う。 特別仕様のヘリらしく、とても珍しいモノだと言う。 それが新聞に載っていたのが、とても嬉しいらしい。 へえ、知らなかったなあ。 そんな話をしていて、フト俺が急に思い出し、「ところで君?もう良くなったんだよね?」と言ったところで・・・ ・・・泣きながら目が覚めた。 この夢を見てから2週間ちょっと、14日18時間後の7月8日午後21時26分に、マーシーは病院で亡くなったのでした。 |
私たちはマーシーが癌だと知ってから、ある程度の覚悟はしていました。 が、それでも「半年後にマーシーが死んでしまう」とは誰一人想像していませんでした。 あまりにも突然過ぎたのです。 マーシーが亡くなった知らせは、漫研OB全員に激しく衝撃を与えたのでした。 別の話をします。 去年の暮れの事です。 2011年(平成23年)12月に、私の大学時代のまた別の友人が亡くなりました。 彼女は日本でアメリカの方と知り合い、結婚して子供も生まれ、その後アメリカに渡り、夫の実家で暮らしていたのです。 彼女は向こうで「水彩画家」として有名になり、立派な本も出していたと聞きます。 それが突然、現地のハイウェイの交通事故で亡くなったと言うのです。 私が知ったのは今年元旦の事でした。 それを聞いて・・・。 私は・・・。 |
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