SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.154
「つくね」について

(2014年9月6日)

私は病院が大嫌いなのです。



病院に行き長い検診の末、何故か人の目を見て話さない医者から病状を告げられると、本当に病気になったような気がするのです。
いや、その結果、告げられた病名よりも、さらに重い症状になってしまうに違いないのです。

私は昔から「体力測定」や「健康診断」が大嫌いでした。
小学生の頃から「何で懸垂なんて せにゃならんの?俺は一回も出来ませんけども、それが何か?」と思っていましたし、大人になってからも「酒もタバコも体に悪い事を知ってて暴飲暴食、チェーン・スモーカーやってますけど、それが何か?」と思っていました。

大きな病院でちゃんとした「人間ドック」を受けたのも、会社に入って10年以上経ってからの事でした。
サイズが合わない検診衣に着替えさせられ、その都度出される指示に従って各診療室を巡るのですが、「次は恐怖のレントゲンです」と言われ、思わず「えっ!!」と大声を出したのも、今となっては良い思い出です。
先生は「恐怖のレントゲン」じゃなく、単に「胸部のレントゲン」と言ってたのですが。

そんな私でも「救急車」に乗った事が2回、長期の入院をした事が3回あります。
今回はその中で、最初に救急車に乗り、最初の入院をした話を書こうと思います。

大昔、中学1年生の時、左足首を骨折したのです。

太い骨が「脛骨(けいこつ)」。それに沿う細い骨が「腓骨(ひこつ)」。
「脛骨」の下端が「内踝(うちくるぶし)」で、「腓骨」の下端が「外踝(そとくるぶし)」である。


今でも「代々木」に大きな体育館があります。

昔の東京オリンピック(1964〈昭和39年〉)のために建設された「代々木大体育館」、正式名称「国立代々木競技場」です。
私が子供の頃、そこでは毎冬「室内スケート場」で賑わっていたのです(代々木第一体育館)。
今でもそうかな?

父に連れられ私と妹の三人、初めてのスケートに出かけたのです。
体育祭の前日には「明日絶対雨になれ、お願い必ず雨になれ」と天に祈っていた私の運動音痴を懸念して、父が連れて行ってくれたのです。

慣れないスケート靴を履き、ヨタヨタとリンクに上がり、ちょっと滑っては転び、ちょっと滑っては転び、それでも何となく数メートル続けて滑れるようになった頃でしょうか。

私はもの凄いスピードで疾走してきた人に衝突され、激しく転んでしまったのです。
そして立ち上がろうとして・・・。
まったく立てなくなっていたのでした。

何度立とうとしても、左足首に力が入らず、「ぐにゃり、ぐにゃり」と変な方向に足が曲がってしまうのです。
感覚もありません。
そう、私は骨折していたのでした。

結局、私たちは救急車で大きな病院に運ばれました。
代々木体育館近くの病院であったと思いますが、今となっては、その病院名は全く覚えていないのです。

レントゲンを撮り、骨折という診断が下されました。
しかも、単なる骨折ではなく「複雑骨折」という事でした。
その日から、即、入院させられたのです。


大昔の話なので、このイラストはオレの想像図。
多分、こんな風に粉々に折れていたんだと思う。

なんせ「複雑骨折」なんだから。


入院した翌日、手術が行われました。

単なる「骨折」なら手術などしないのですが、私の場合は「複雑骨折」、「複雑」なんです。
「骨がバラバラ」なんです。

左足に局部麻酔をかけ、足を切り開き、砕け散った骨を元の位置に戻していきました。


手術は数時間かかったと思う。


普通の「骨折」の場合。
折れた骨を引っ張って元に戻し、添え木を当てたり、ギブスで固定したして終いです。
しかし、私の場合は違いました。

砕けた骨を集めて元に戻した後、骨に沿わせて一本、足の中に「鉄柱」を入れたのです。文字通り「鉄骨」です。

こうして骨が完全にくっつくまで、「鉄柱」で保護するのです。

もちろん、生身の体の中に入れるのですから、「ステンレス」みたいな錆びない、しかも軽い鉄であったろうと思います。
錆びないといっても「アルミ」じゃ柔らかく強度もないでしょう。
かといって、「チタン」じゃ高価でしょう。
やっぱ、「ステンレス」だったんじゃないかなあ。


足に入れたステンレスの端は、踝あたりで外に出ていた。


切り開いた後は丁寧に縫合され、数日後に抜糸されました。
それから、ギブスで膝から踵までをガッチリと固定しました。
結局、入院していたのは1週間ぐらいだったと思います。

病室は個室ではなく大部屋で、母が毎夜、私の面倒を見るために付き添ってくれました。

父は私の好きな模型を買って来てくれました。
タミヤの「シャーマン戦車」で、病室で組み立てていました。
「このサスペンション、第二次大戦後の朝鮮戦争のヤツなんだよなあ」と思った事を覚えています。

それにしても、病室でプラモデルの接着剤の臭い、大丈夫だったのかなあ。


子供の頃の、しかも初めての入院は、とても刺激的で、とても寂しいモノだった。


そして退院。
ギブスを付けたまま自宅静養が始まります。

生まれて初めて「松葉杖」も使いました。
木で出来た大きく重いモノでした。
骨折したのは中学1年の春休みで、「松葉杖」を使い中学校まで通学していたのです。

ようやくギブスを外せるようになったのは、夏が近づいていた頃でしょうか。

病院へ行き、ギブスを外します。
ギブス生活をした方なら判ると思いますが、あれは填めている間、中が痒くて痒くてしょうがなくなるのです。かと言って、ギブスの上から掻くワケにもいかず。
ギブスを外し、凄く痩せ細った自分の足に驚き、それでもさっそく掻きまくったのでした。

そして、足に入れた「鉄柱」を取り出す事になりました。




さて・・・。

みなさんは焼き鳥の串を外す時、どうしますか?
・・・。




皿の上で「肉を箸で押さえ」、串の端をしっかり持って「ぐりぐりしながら」引っ張って、「肉を外し」ますでしょ?
そうしないと、串と肉がキレイに離れないからです。

「鉄柱」を抜くため、再び手術なんて面倒な事はしないのです。
そんな事をしたら、再び足を切り開かなければなりません。
手術で縫合する際は丁寧に麻酔を使い、それが抜糸するときには乱暴で大雑把、これが「医者の世界の道理」らしいのです。

そこで。
踵から出ている「鉄柱」の端を、巨大な医療用ペンチでしっかりと掴み、「ぐりぐり」回しながら・・・、「ゆっくり、ゆっくり」と抜いて・・・いくのでした・・・。
麻酔も使わずに、です。


つくねを串から外す要領で、ぐりぐり、ぐりぐりと、回しながら抜いていく。


私は長い事 人生やっていますが、あの時の激痛を越える痛さは、未だ経験した事がありません。

私の左足には今でも「12センチの縫い傷跡」」が残っています。
子供の頃の12センチですから、大きな手術だったのでしょう。

その傷を見る度に、あれが「子供の頃見た悪夢」でない事が判るのです。




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