小さい子供はよく走るのであります。 私が住んでいる所から一駅隣に、その区を束ねる大きな「中央図書館」があり、私は時々そこに出掛けるのです。 図書館は、駅を出て左に折れた坂道のてっぺんにあります。 そんなワケで、夏が近づくと図書館に到着するまでに「汗だく」になってしまうのでした。 先日も、その坂をトボトボと歩いていたのですが、そんな私を追い抜いて、数人の1・2年の小学生が走って行きました。 この道は「通学路」にもなっていて、時間帯によっては小学生を始め、様々な学生たちと、よくすれ違うのです。 そして、小学校低学年たちはいつも、そこを走っているのでした。 「ランドセルじゃんけん」という遊びがあります。 小学校の帰り路、電柱から電柱まで「駆けっこ」する遊びです。 その際、じゃんけんをして、負けた人は友達全員の「ランドセルを持ち」、次の電柱目指して走るのです。 一着になれば良し。 ビリになれば「罰ゲーム」として、また「友達全員のランドセル」を持って、次の電柱目指して走り出すのです。 この遊びの面白い、いや残酷なところは、ランドセルを持たされる「ハンデを負った子」が、そのハンデゆえ、次のゲームでも「勝つ可能性が低くなる」という厳しい点にあります。 それでも、私が見かけた時には、ビリになった子も全員のランドセルを両手に抱え、ガチャガチャと盛大に音を立てて、嬉々として走っているのでした。 いや、「ランドセルじゃんけん」だけではありません。 その遊びに参加していない他の子供たちも、皆、走っているのです。 走っていなくても、「スキップ」なんかしているのです。 何故、小さな子供はよく走るのでしょうか? 考えてみました。 彼・彼女らは、早く「次の電柱」が見たいのではないでしょうか? 「ランドセルじゃんけん」に参加していようが、いまいが、一刻も早く誰よりも先に「次の電柱」が見たいのではないでしょうか? もう何十年も生きている私のような者にとって、「次の電柱」には興味がありません。 興味がないどころか、「坂道を走る」というような恐ろしい行為は、出来るだけ避けたいと思っています。 疲れるからです。 もっとも、彼ら・彼女ら小さな子供たちが「疲れてないか」と言えば、しっかりと「疲れている」のです。 バタバタと走り、次の電柱に到着すると「ハアハア」と激しく呼吸をしているのです。 暑い日には「ダラダラ」と汗も流しているのです。 そこまでして、走りたいか。 そこまでして、「次の電柱」が見たいか。 馬鹿なのか。 もう何十年も生きている私のような者にとって、この道を歩いて行くと電柱が見えて、さらに歩くと「次の電柱」に辿り着く事は知っています。 何回も経験して知っているのです。 もちろん、彼らだって知っているのでしょうが、それでも彼らは「次の電柱」を目指して「走る」のです。 多分、彼らは「ひょっとしたら」と思っているのではないでしょうか? それを「確かめ」たくて、「走って」いるのではないでしょうか? 「ひょっとしたら」、次の電柱は昨日見た時よりも曲がっているかも知れない。 「ひょっとしたら」、次の電柱に変な色が塗られているかも知れない。 「ひょっとしたら」、次の電柱が無くなっているかも知れない。 そう思って、小さな子供は「次の電柱」目指して走っているのでしょう。 もちろん、「走る子供」を見かけるのは、図書館に行く途中の坂道だけではありません。 夕方の商店街でも、小さな子供は走っているのです。 「○○ちゃん!走らない!走らない!」と子供の後から付いていく母親はよく見かける光景です。 この場合、「次の電柱」が見たいというワケではなさそうです。 賑わっている商店街を走っているのなら、その子は人混みを抜けた、先にある物を見たいのかも知れません。 漂ってきた焼き鳥の美味しそうな匂いや、香ばしいカレーの香りの出所を、いち早く知りたいと思っているのかも知れません。 列を作っている人たちは、何に並んでいるのか。 人々の笑い声は、何を笑っているのか。 彼ら・彼女らは、誰よりも早く、それを確かめたくて「走って」いるのかも知れません。 そう、小さな子供たちは、先にある「次の風景」が見たくて「走って」いるのでしょう。 もう何十年も生きている私のような者にとって、「次の電柱」も「次の風景」も「走って」まで見るモンでは無い事を知っています。 そこまでする価値はないと知っています。 でも、子供たちにとっては、「次の電柱」も「次の風景」も、既に何回も見て知っている事であっても、毎回「ひょっとしたら」と思い、何が起こっているか知りたくて、「走って」いるのでしょう。 「次の電柱」「次の風景」、今より先にある事。 つまり「次の未来」が見たくて、彼らは走っているのでしょう。 マグロやカツオが海中を猛スピードで泳いでいるのは、死んでしまうからだそうです。 そうしないと、「呼吸」が出来なくなってしまうのです。 「♪走り続けていなきゃ 倒れちまう 自転車みたいな この命 転がして♪」。 私の好きな「中島みゆき」の「親愛なる者へ」の歌詞であります。 何故、小さな子供はよく走るのか。 多分、彼らは元から「走る」ように出来ているのでしょう。 大した理由がなくとも、彼らは「走る」ように出来ているのでしょう。 そうしないと、マグロやカツオみたいに死んでしまうのかも知れません。 自転車みたいに、存在する意味を失ってしまうのかも知れません。 彼らは走るのが大好きなのです。 走らずにはいられないのです。 走るために生まれてきたのです。 早く「次の電柱」を見るため、早く「次の風景」を見るため、早く「次の未来」を見るため、今日も小さな子供は走っているのでしょう。 とうに、そんな元気も気力も無くしてしまった、もう何十年も生きている私のような者にとって、邪魔にならぬよう道端に身を寄せ、彼らが走り抜けて行くのを、ただただ見送るしかないのでした。 「やでやで」と呟きながらも、少しの羨望を持って。 ちなみに。 「ランドセルじゃんけん」で酷使されたランドセルは、小学校を卒業する頃には、もう、すっかり「ボロボロ」となっているのであります。 |
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