SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.173
「サリンジャーの事を恐る恐ると」
について

(2018年4月1日)


サリンジャーの事を恐る恐ると書きます。


ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー、
「J・D・サリンジャ−(1919〜2010)」。
サリンジャーは第二次世界大戦を跨いだ20世紀のアメリカの作家です。
私たちの頃には「え?サリンジャー読んでないの?ああ・・・そう・・・でしたか・・・」と遠くを見る哀しい目で言われたモノなのでした。

代表作は「ライ麦畑でつかまえて(1951)」。
「ライ麦畑でキャッチ・ボールする、小さな子供たちが崖から飛び出さないように、私は『キャッチャー』になりたい」、そんな主人公「ホールデン・コーンフィールド」のクリスマス休暇の数日間の物語です。

本作以前にも、「最後の休暇の最後の日 (1944)」や「気ちがいになった僕(1945)」、「マディソン街のはずれの小さな反抗(1946)」や「バナナフィッシュにうってつけの日(1948)」など、「無垢なる問題児」の系譜の作品がいくつか見つかります。
「ライ麦畑でつかまえて」は、それらの集大成・ひとつの結論と言えるかもしれません。

わずかな長編と数十編の短編しかない寡作な作家ですが、学生時代より何回読んでも飽きない、私の大好きな作家なのでした。

本エッセイ・タイトルにある「恐る恐る」とは、サリンジャーの事に関して私よりも「深く詳しい」方が大勢いるからなのでした。
それと「何を今更サリンジャー?」と言われてしまう不安。
でも、ま、いっか。
書いちゃおっと。


当時、私の大好きだった少女漫画家たちは、例えば「大島弓子」「萩尾望都」「竹宮恵子」たちは皆、サリンジャーのファンでありました(ハズ)。
で、反対に当時の少年漫画家たちは、サリンジャーなど知らなかったのです(これもハズ)。
(私が70年代に一部の少女漫画を愛した理由がここにあります。
遡って60年代は少年漫画が好きだったのです。永島慎二とか石森章太郎とか)。


サリンジャーの好きな作品はいろいろあります。

愛すべき天才一家を描いた「グラース家」シリーズの「バナナフィッシュにうってつけの日」や「大工よ、屋根の梁を高く上げよ(1955)」、「シーモア序章(1959)」や「フラニーとズーイ(1961)」はもちろん大好きです。
戦争逸話っぽい「やさしい軍曹(1944)」や「マヨネーズぬきのサンドイッチ (1945) 」も大好きです。
「笑い男(1949)」や「小舟のほとりで(1949)」のやりきれない哀しみの物語も大好きです。
でも、一つだけ選べと言われたのなら・・・、ま、選べませんけど、私は「エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに(1950)」を選ぶのでした。

第二次世界大戦末期のイギリス。
そこに駐屯している若いアメリカ兵の主人公。
彼は既に疲労困憊、心身共に傷ついていた。
そんな時に知り合った一人の少女。
彼女によって、彼は段々と癒やされていく。

「サリンジャーってロリコン?」と思いたければ思え。
言いたきゃ言え。
傷ついた主人公が無垢の少女によって癒やされる話は多いのでした。
いわゆる「サリンジャー印」。
(今、勝手に命名しました)

そもそも「ライ麦畑でつかまえて」もそうでした。
「バナナフィッシュにうってつけの日」もそうでした。
そして、この「エズミに捧ぐ」も、そうなのでした。


天才一家グラース家の長兄「シーモア・グラース」の突然の自殺を描いた「バナナフィッシュにうってつけの日」も大変重要な作品でした。

新婚旅行でフロリダのビーチサイド・ホテルに泊まっている彼は、砂浜で幼い少女「シビル」とバナナフィッシュの事で議論する。
バナナフィッシュとは海底のバナナの穴に住んでいる魚。
シビルは今朝、そのバナナフィッシュを見たという。
とても満ち足りた気分のまま、彼はホテルの自室に戻り、ピストルで自殺を遂げる。

「天才と気ちがいは紙一重」とは天才を表した例えです。
私は天才ではなく隣人にもいないので、天才とはどういう人なのか判りません。
先の例えから、「凡人には判らない突拍子もない事をする人なんだろうなあ」と勝手に想像するのみです。

本作から思い描く「天才」のイメージは、物静かで穏やかで優しくて、信じられないほど深い哀しみに囚われている人、というモノなのでした。
(あ、突然思い出した事を書きます。
「人といふ 人のこころに一人づつ 囚人がいてうめくかなしさ」という石川啄木の句が、私は好きなのです。
ん、本当に関係ないな)

後年、漫画家「吉田秋生」によって「BANANA FISH(1985〜95)」が描かれましたが、小説とは関係のない話でした。
いや、インスパイアはされたのかも知れませんけども。

ところで、この「バナナフィッシュにうってつけの日」。
出版社や訳者によって「バナナフィッシュ日和(びより)」「バナナフィッシュに最適の日」、そして「バナナフィッシュにうってつけの日」と異なるタイトルが付けられています。
原題は「A perfect Day for Bananafish」で、私は一番最初に読んだ「バナナフィッシュ日和」が一番馴染んでいて好きなのでした。



最後にもう一つ。

サリンジャーを語る時、「倒錯の森(1947)」も挙げなくてはなりません。
これは私の一番好きな作品なのです。
え?
さっき、「エズミに捧ぐ」が一番好きだって言ったって?
う、うーん・・・。
わ、私はサリンジャーがみんな好きなのですっ!

で、です。

これはサリンジャーが得意とした「孤高の天才」の物語です。
短編ではなく、長編でも無く、唯一の「中編」なのでした。

前に、無垢の少女によって傷ついた主人公が癒やされていくのが「サリンジャー印」だと書きました。
そおいった意味で、本作は「反サリンジャー印」の傑作なのであります。

大学教授で天賦の才を持つ詩人レイモンドが、一人の女子学生によって壊されていく。
しかも、壊れていくのはレイモンドだけではあく、夫の彼を略奪された妻コリーンも同様だった。

そして作中、彼の書いた詩集「臆病な朝」の中の一つの短詩が、読んだ時から今の今まで、私は忘れられないのです。

「荒地ではなく、木の葉がすべて地下にある、大きな倒錯の森なのだ」。

不毛で何も無い土地ではないのです。
でも、ちょっとだけ世の中の常識とは異なっているだけなのです。
木の葉も果実も無いわけではない。
それは単に地上には伸びてなく、みんなの見えていない地下に伸びているだけなのです。

私は、小説に出て来たこの短い詩に、あれからずっと勇気づけられているのでした。






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