私は昔から本や漫画、テレビや映画などに登場する「名台詞」を日記に書き留めておくようにしていました。 中には「名台詞」じゃないけども、当時私が本、テレビ、ネット等で気になった「雑学」も入っています。 と言うワケで、今回も昔の日記からそれらを抜き出してご紹介するのであります。 (2010年の日記からの抜粋です。 今回ちょっと長くなりましたので『3つ』に別けます。 本エッセイはその中編です) コメントはその当時のモノ。 ※印付きのコメントは、今の私の補足説明です。 またまた前後の脈略無くズラズラズラと並べてみました。 ペスト穴「ピット」 中世ロンドン、ペストで亡くなった死体を隔離し処理する穴が各地で掘られた。 そのひとつが「ブラックヒース」であると言う。 ジョン・L・ブリーン他「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊(2006)」、コリン・ブルース「イースト・エンドの死」より。 ※ロンドン、グリニッジ天文台の南にあり、昔はテムズ川近辺に生える植物よりも暗い色に見えたため、 「ブラックヒース(Blackheath)」と呼ばれるようになった、のだそうです。 「そうかもしれませんが」スワラジ氏は、大きく目を見開いた。 「それと同じ証拠を与えられて、あなたと同じ結論に達することができた人は、ロンドン中にひとりもいなかったどうと思います」 「それなら、ひとりはいるでしょう」とホームズ。 「二人かもしれない」。 ジョン・L・ブリーン他「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊(2006)」、ビル・クライダー「セント・マリルボーンの墓荒し」より。 ホームズの言う残りの二人とはおそらく「マイクロフト」と、もちろん「モリアーティ」であろう。 ※「シャーロック・ホームズ」、その兄「マイクロフト・ホームズ」、ホームズの宿敵「ジェームズ・モリアーティ」。 この三人が他の人達とは全く違う、希有で並外れた高い知能を持っていることは、シャーロキアンには有名なのでした。 「パークは殺し屋、ヘアは泥棒、ノックス君は肉を買う」かい? ジョン・L・ブリーン他「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊(2006)」、ビル・クライダー「セント・マリルボーンの墓荒し」より。 殺した相手を、死体解剖用にノックス博士に売っていた事件。その「戯れ歌」が当時流行っていたと言う。 ※19世紀初頭の有名なウェストポート連続殺人事件。 17人の遺体がエディンバラ大学医学部に解剖用として売られます。得意客は「ロバート・ノックス」医師。 当初、墓場荒しで調達した遺体だと思われていましたが、実は「ウィリアム・パーク」と「ウィリアム・ヘア」によって殺害された被害者たちだったのです。 医者にとって「死」は何ら恐ろしいものじゃないよ。人生のプロセスの一部だからね。 ワトスン。ジョン・L・ブリーン他「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊(2006)」、ビル・クライダー「セント・マリルボーンの墓荒し」より。 ※シャーロキアン(シャーロック・ホームズ好き)たちはホームズ物語をコナン・ドイルが書いた「正典(Canon)」と、それ以外のファンたちが書いた「パスティーシュ(模倣作品)」とに区別しています。 何故「ホームズ・パスティーシュ」にも大きな席を与えているかというと、コナン・ドイルが書いた原作と同等が、それ以上の傑作もいくつかあるからなのでした。 で。 私が好きな「死」に纏わる話で好きなのが、正典の「瀕死の探偵(1913)」です。 ホームズが死の間際、あらぬ事「僕は海の底がいつか牡蛎だらけにならないか心配なんだ!」と叫ぶのでした。 英国の田舎で過ごす週末の退屈さを越える唯一のものは、アイルランドの田舎で過ごす週末の退屈さだ。 ホームズ。ジョン・L・ブリーン他「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊(2006)」、マイケル&クレアブレスナック「クール・パークの不思議な事件」より。 ※結局、「イギリスは退屈だ」という自虐ギャグなのでした。 カーナッキは両方の見方を支持する証拠を提示するが、どちらであるか決定的なことを明言するのは、避けるのだ。 偉大な怪談作家M・R・ジェイムズの「超自然的物語の傑作は、『自然科学で説明できるような抜け穴』を残しておくべきだろう」という金言をみごとに実証する、好例のひとつである。 ジョン・L・ブリーン他「シャーロック・ホームズ ベイカー街の幽霊(2006)」、バーバラ・ローデン「『幽霊まで相手にしちゃいられない』か?」より。 ※「カーナッキ」とはウィリアム・H・ホジスンの「幽霊狩人カーナッキ(1913)」の事であります。 大昔の海外ドラマ「事件記者コルチャック(1974〜75)」や「バフィー 恋する十字架(1997〜2003)」、日本で言えば鬼太郎の大先輩「妖怪ハンター」なのであります。 「オマエさー。探偵ぶるのやめた方がいいぜ」 「っていうか 僕は探偵なんですよ」 「あかねちゃんにメチャクチャ嫌われているしよー」「ゴロちゃん あかねが保健室から戻ったでー」「だいじょうぶー?」「あっ」「あやまれよ」「・・・」 「さっきはゴメンねー」 「コラ指さして あやまるなよー」 「探偵なんで」 浜岡賢次「浦安鉄筋家族」より。 少年探偵「江戸五郎」は「菊地あかね」を怪我させてしまう。五郎は謝る時も探偵の癖で「指差し」しながら、偉そうにしか謝れないのだった。 ※「浦安鉄筋家族(1993〜2002)」は「週刊少年チャンピオン」で連載された平成の「がきデカ(1974〜1980)」とも言うべきギャグ漫画です。 平成の「マカロニほうれん荘(1977〜79)」でも良いんだけど連載期間の長さを考えると、やっぱ「がきデカ」かな? 八幡(ヤワタ)知らず。 道筋が幾通りとなく粉雑せる様。ラビリンス。迷宮。 八幡(やわた)の藪(やぶ)知らず。千葉県市川市八幡にあった竹藪は、一度入ると出口がわからなくなるといわれたところから、出口がわからないこと。 また、迷うことのたとえ。 北原尚彦「シャーロック・ホームズ万華鏡(2007)」より。 ※今考えたんですけども「八幡の渡し」。 そんなのに乗りたくないですよねえ、何処に着くか判らない渡し船・・・。 いま私は、ある特別な種類の人々について興味を抱いている。 「モノを可能な限りリアルに再現する人たち」だ。 これだけでは何を言おうとしているのか、よくわからないと思う。それはしばしば「リアルだが全体にサイズが縮小される」こともあり、そこまで書けば、おおよそのことがわかるはずだ。 たとえばそれは「鉄道模型マニア」である。 なぜ「モノを可能な限りリアルに再現する人たち」は、ああもリアルにこだわるのか。興味の中心はそこにある。 背後になんらかの思想が隠されているのだろうか。 リアルに再現する行為のなかにメッセージが込められているのか。いや、私はそうは思わない。 彼らはただそうしている。つまり「ついついリアルに作ってしまう」のである。ふと気がつくとリアルだった。 「あ、また、こんなにリアルになってしまった」と、彼らは作業の途中で気がつくだろう。 そして、「もう俺には、リアル以外、何も作れないのか」という表現者としての彼らの悲劇がそこにある。 宮沢章夫「わからなくなってきました(1997)」の「天の猿 地の牛 リアル」より。 ※気がつくと「リアル」になってしまう病(ヤマイ)・・・。 私も一時期、鉄道模型じゃないけど、それに罹っていました。 治ったのは「老眼」というまた別の病(ヤマイ)によって・・・。 ものごとは、おおむね「だめ」になってゆく。 宮沢章夫「わからなくなってきました」の「呆然とする技術(2003)」の「発酵と腐敗」より。 喫茶店において「だめ」を象徴する存在として、「焼きうどん」があると言う。 喫茶店が「焼きうどん」を始めたら、それは「だめ」になった証だと言う。 ※「エントロピーの拡大」ですね。 私は寿司屋が「スイーツ」出したら「だめ」になった証拠だと思います。 ってもうあるやんっ! 「石版」から「紙」に媒体が代わるときには、「石版がなくなるとは思えない。紙は虫に食われるし破けてしまう」とか言われてたんだろう。 2チャンネル。 【文化】 京極夏彦の新刊、本は1785円、iPad版は700円・・・京極夏彦「紙か電子かと幼稚なことを議論してる場合ではない」より。 ※手書きからいち早くワープロに乗り換えた作家が「安部公房(1924〜93)」でした。 その彼の名台詞が「ワープロで打った文章には魂がこもらないって意見があるだって?馬鹿な。万年筆から出てくる『魂』なんて、ずいぶん軽薄な『魂』もあったもんだよ。 当然のことだけど、手段はなるべく簡素で、使用感が希薄なほうがいい。車だって運転し易いほうがいいだろ」なのでした。 たとえば、ウィンドウズの警告にこんなものがあった。 何かの作業中、それは突然、出現した。 「致命的エラー」。 これが出たとき私はもうだめだと思った。 なにしろ「致命的」である。 宮沢章夫「茫然とする技術(2003)」の「蹄を打ち鳴らす音よ! 致命的エラー」より。 ※だいたい「警告」という事自体 怖いですよね。 普通に生きている限り、「警告」される事って、あまりありませんモノね。 食欲より、カレー。 人はたとえ、おなかがすいても、カレーを目の前に出されれば、それまでの空腹感を忘れるだろう。 もしかすると「カレーが食べたい」という意識すら忘れる。 もうこうなるとなんだかよくわからないことになっているが、とにかく、たいていのことは忘れてしまう。 いやなことがあればカレーだ。 カレーさえ出てくればいやなことなど忘れるのだし、大切な約束もカレーの前では効力を失い、結婚式のメニューにカレーがあれば、いま自分が何をしているのか新郎新婦でさえ忘れる。 まして、仲人は。 宮沢章夫「茫然とする技術(2003)」の「読書する犬 カレーと、インド遅れた」より。 ※大昔。私がまだ子供だった頃。 タワーマンションはもちろん、10数回のマンションや数回建ての団地も少なかった時代―、 夕暮れ時になると近所の木造モルタル住居から、つまり普通の家庭から、カレーの匂いが溢れだしてきて、気が狂いそうになったモノなのでした。 乱暴に突然、自分が空腹である事を知らされて。 情報部グラント「まるで大砲の音ですね」 マイケルズCMDF(ミニチュア機動部隊)医療部長「大砲ならもの凄い破壊力だ。1分間に70以上も撃つんです」 脳外科医デュバル博士「一回一回が人の命を刻む音だ・・・」 アイザック・アシモフ「ミクロの決死圏(1967)」より。 ※これは映画の方ですが、医者ともども縮小されたプロメテウス号が、注射によって患者の体内に入るシーン。 激流と共に注射針から体内に入っていくシーン。 小さかった私はこの時、「ああ!注射器の針って先っぽが斜めにカットされているんだ!」と初めて知ってビックリしたのであります。 あいにくこれは「Combined Miniature Deterrent Forces(総合ミニチュア統制軍)」の略なんだよ。 情報部のグラントに生理学者、CMDF医学部長のマイクルズが説明する。直訳すると「複合小型抑止軍」。 アイザック・アシモフ「ミクロの決死圏(1967)」より。 ※私はこの手のSF小説、ドラマ、映画に登場する、実際にはない「組織」「計画」名が大好きなのであります。 大昔の「タイムトンネル(1966〜67)」の「チックタック計画」や、近年では映画「オデッセイ(2015)」の「エルロンド計画」とか、です。 間引かれた方が、選ばれた方なんだよ・・・。 玉川美沙。文化放送「玉ナビ」より。 玉ちゃんがベランダの鉢植えから春深くに「セント・ジョーンズ・ワート。西洋弟切草」の芽がワラワラ生えてきたのだそうな。 それを見て玉ちゃん、申し訳なさそうに上の台詞を呟き、適当な芽を間引いていったのだそうな。 ※とても優しい、でもよく考えるととても辛辣な、意味深いセリフなのであります。 「一人の男が墓地のそばに住んでいた・・・」 これは未完におわったある物語の好奇心をそそる書き出しである。 ジョン・ディクスン・カー「火刑法廷(1937)」より。 本作の最初の一行。 ※カーの「火刑法廷」はミステリ者なら一度は読まなければならない小説です。 でも、どんな話か忘れちゃいました。カーの事だから「密室」が出てくるのでしょう。 そして最後は「謎」が「謎のまま」終わるのでしょう。 多分。 「困難を分割せよ」という奇術の基本的な原理がある。 たとえば何か品物を消してみせる場合、処理しやすい状態にいったんしておいてから、消してみせるという二段がまえの策略を用いる。 ジョン・ディクスン・カー「火刑法廷(1937)」の松田道弘の解説より。 ※これは「我思う、故に我あり」で有名なフランスの哲学者で数学者「ルネ・デカルト(1596〜1650)」の 「困難なことはすべて、扱うことができ、解決が必要な部分へと分割せよ」から来ています。 そしてこのデカルトは数学の世界に「因数分解」をもたらした大悪人でもあります。 ↑嘘です。 「渚にて(小1957、映1959)」をパクって「復活の日(小1964、映1980)」 「復活の日」をパクって「アンドロメダ病原体(小1969、映1971)」 出典不明。2ちゃんかな? ※この3パク(3パクって・・・)が凄いのは、それぞれみんな面白いSFな事であります。 さらに凄いのは、みんな面白い原作小説を持ち、みんな面白いSF映画になっている事なのであります。 するとオズボーンが笑った。 「世界の終わりというわけじゃありません。ただ『人類の終わり』だというだけで。 世界はこのまま残っていくでしょう。そこにわれわれがいなくなってもね。 人間など抜きにして、この世界は永久につづいていくんです」 ネヴィル・シュート「渚にて(1957)」より。 ※オズボーンは「シニカルな見方」をする科学者で、映画では「フレッド・アステア」が好演していました。 「よくないことが見つかったとしても楽しいといえるの?」 「ああ、いえるね」オズボーンはきっぱりといった。 「ゲームというのは負けたときでも楽しいものさ。 たとえゲームをはじめる前から負けるのがわかってるとしてもだ。 つまりゲームをすること自体に楽しみがあるってことだ」 最初の台詞はヒロインのモイラ。応えたのは従兄弟のオズボーン。ネヴィル・シュート「渚にて(1957)」より。 ※彼、オズボーンがガレージの中で愛車のクラシック・カーのエンジンを空ぶかしし、自殺していくシーンは、いつ観ても私はボロボロと泣いてしまうのでした。 「そもそも言葉なんて聴きとれていないんじゃないのか?」とハートマンはつづけた。 「たまたま言葉のように聴こえただけ、というほうがありそうだな。 無数の猿がでたらめにタイプライターを叩いたとしたら、なかには一匹ぐらい偶然シェークスピアの戯曲を執筆してしまうやつがいるかもしれないだろう」 ネヴィル・シュート「渚にて(1957)」より。 ※結局、その発信源のシアトルに来てみたら、窓のシェードから伸びた紐に絡まった「コカ・コーラ」の空き瓶が、風に揺らされてモールス信号のキーを打っていた事が判るのでした。 このSF映画史上の有名なシーン、原作小説にもありますが、映画化の際、さすがに「コカ・コーラ」とタイアップしてたのでしょうか? このように二度に亘って驚かされる怪談は「再度の怪」などとよばれ、福島県会津若松市の「朱の盤」もこれに属する。 小泉八雲の「怪談」の「むじな」を挙げていて。 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※「喋らないという約束を破ったわね」と正体を再び現す「雪女」も、この「再度の怪」なのでしょうか。 多田「物忘れや勘違いというのも、妖怪発生には大事な要素ですね」 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※「幸子さんや。朝ご飯はまだかいね?」と近い将来の超高齢化時代は、もう「妖怪続出」なのであります。 多田「僕個人が考えている妖怪の定義というのは『ある人が体験して理解できないと怪しんで、痼(シコ)りになるぐらいなんだったのかと思っているもの』これが全て妖怪なんだと思う。 自然現象や怪しい動物、怪しい人物も含めて、心に痼りが残るぐらいに怪しい体験したもの、全部含めて妖怪でいいじゃない」 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※「僕個人が考えている妖怪の定義というのは『ある人が体験して理解できないと怪しんで、痼りになるぐらいなんだったのかと思っているもの』」。 あっ!じゃ、私がいつもいつも女の人にフラれるのは、やっぱあれは妖怪の仕業だったのか! 納得です!多田先生! 京極「僕は妖怪にとって、キャラクター化されているか否かという問題は結構大事なんだろうと思うわけです。 キャラクター化されているというのを平たく言うと、名前があって形がある―ということになるんだけど」 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※名前があって形がある(そして決まった能力がある)と言えば「ポケットモンスター(1996〜)」。その後継が「妖怪ウォッチ(2013〜)」。 そうか。これは「先祖返り」だったのね。 京極「爺・婆・小僧って付けると、だいたい妖怪になっちゃいますからね」 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※なるほど。子供か年寄りか、ですね。そおいや、あまり「豆腐青年」なんて聞きませんモノね。 それじゃ単なる貧乏学生ですモンねー。 かつての日本では乳児の死亡率が高かったが、七歳を越せば後は一安心という考え方があった。 七歳未満の子供の魂は不安定な状態にあり、それだけ些細なことで死んでしまうとされていたのである。 「七歳までは神の内」という言葉はそれを表現している。 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※それで七歳までを祝う「七五三」があるんですね。 そしてその際「千歳」まで生きるようにと「千歳(チトセ)飴」を食べるんですね。 多田「さっきの話の繰り返しになるけど、妖怪を擬人化する時の言葉としては、坊か小僧が圧倒的に多い。そして、婆と爺」 京極「でなかったら女、ですよ」 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 ※確かに「こたつ男」よりも「こたつ女」の方が妖怪っぽいですよねえ。 なんだ?「こたつ女」って? 村上「そう言えば『アクメくん』というビデオがありましたっけ」 多田「加藤礼次郎。呪文がエル・エム・エスサイズですよ。なんかすごかった」 「アクメくん」は1995年のAVビデオ。 京極夏彦・多田克己・村上健司・(編集者・青木大輔)「妖怪馬鹿(2001)」より。 京極夏彦が絵が上手いとは知っていたが、ここまで上手いとは思わなかった。 この本には歌舞伎絵、いしいひさいち、梅図かずお、高橋留美子、永井豪、赤塚不二夫、不二子藤雄F、川崎のぼる、諸星大二郎、田川水泡、しりあがり寿、吉田戦車、つげ義春、 鳥山石燕、喜国雅彦、松本零士、石森章太郎、さいとうたかお、みうらじゅん、手塚治虫、水木しげる、山上たつひこ、鳥山明?、つのだじろう等の、とても上手いパロディ漫画が、京極夏彦によって描かれているのだ。 これを見るだけでも、この本は面白いと思う。 ※「京極夏彦」もそうだけど「荒俣宏」も「竹本健治」も、「本当は漫画家になりたかったけど絵を描くのがしんどくて小説家になった」という希有な人がたまにいますよねえ。 根本敬は以前「ガロ」で、日本のマンガ家は「九割の手塚治虫系」と「一割の水木しげる系」で成り立っていると書いていたが。 大泉実成「消えた漫画家 ダウナー系の巻(2000)」より。 ※「根本敬」は特殊漫画家(自称)です。「未来精子ブラジル」は傑作でした。 人にはお勧めしませんが。 鴨川「キャラクターが元気になればなるほど、描いているほうは、どんどん病気になっていくんですよね。反比例していくんですよ。だからそれがどこまで続けられるか、ってことなんですけどもね。 本当に元気なキャラクターを描いている作家っていうのは、ボロボロですよ」 鴨川つばめ。ギャグ漫画家について語った事。 大泉実成「消えた漫画家 ダウナー系の巻(2000)」より。 ※逆ドリアン・グレイの肖像ですね。 売れっ子漫画家になるためには「悪魔」との契約が必要だという。 精神医学者クラインが「全体対象」と呼ぶものへと至る道について考える。 人間は成育過程で「良い・悪い」という分裂の「部分対象」を統合して「全体印象」へと至る。 少年マンガの面白さとは、この統合のダイナミズムに尽きるのかもしれない。 善と悪の極端な分裂と、その統合。 「ドラゴンボール」では、その分裂がエスカレートしていき、だからこそ統合のダイナミズムが面白かったともいえる。 しかし「ドラゴンボール」以降の鳥山作品は、その統合が明らかに小さくなった。 その分だけダイナミズムが弱くなり、求心力をうしなっているのではないか。 大泉実成「消えた漫画家 アッパー系の巻(2000)」より。 ※「週刊少年ジャンプ」の漫画の多くが、この「分裂」と「統合」ですよね。それは本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将(1968)」から一貫して現在まで続くのでした。 かりに「戦う少女」の系譜とでもいうべき、わが国固有の表現ジャンルが存在する。 それもマイナーな領域に留まるものではなく、むしろきわめて広範囲に、メディアの至る所に、その表現が浸透している。 斎藤環(タマキ)「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※日本史に見る「戦う少女」の嚆矢は「巴御前」かも知れません。 平安時代の女武者で、甲冑を身に纏い薙刀やら長弓(チョウキュウ)を携え、軍馬に跨がるその勇壮な姿は、いくつもの武者絵に描かれています。 著者の「齋藤環」は精神科医。 しばらく、この人の本からの引用が続きます。 おたくとは、アニメとか怪獣とかの幼稚な移行対象を握りしめ、手放すこともできないまま成長してしまった未成熟な人間のことだ。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※私が精神科医のアニメ評やおたく評が胡散臭いと思っているのは、一見アニメやおたくにすり寄るような仕草を見せながら、その実、アニメやおたくを軽んじているところであります。 「手放すこともできないまま成長してしまった未成熟な人間のこと」って、これ明らかにdisってますよね? 「オタクの定義」は次の三項目である。 定義1:進化した視覚を持つ。 定義2:高性能のレファレンス能力を持つ。 定義3:あくなき向上心と自己顕示欲。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※斎藤環は「オタク」はみな「アニメ好き」、「アニメ好き」が「オタク」、と思ってるフシがあります。 そうしておかないと、自著「戦闘美少女の精神分析」の展開に瑕疵(カシ)が生まれる、からなのでしょうけども。 おたくたるためには、第二次性徴出現以降の性欲を必要とするからである。 いい年をしてアニメ好き、だけならさして問題はない。 「問題」を探したいなら、いい年をしてアニメの少女を性的対象としていることを、まずとりあげなければならない。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※そうかなあ。 例えば、小学生になる前の幼稚園児の熱狂的な「プラレール」好きは「おたく」じゃないのかなあ? その子がメチャクチャ、プラレールに詳しくて「プラレール博士」と言われるような子でも? 齋藤環の説だと「アニメの少女を性的対象」としていないから「おたく」じゃないのでしょうけども。 「テンタクル・ポルノ」 うろつぎ童子や真・淫獣学園。 巨大な触手を持つ化け物に女性が犯されるシーンが出てくるような成人向けアニメ作品の一般的呼称。 主としてアメリカのアニメ・ファンが用い、かなり侮蔑的な意味が込められている。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※そうか。あれは「テンタクル・ポルノ」って言うんですねえ。 してみると、「葛飾北斎」はテンタクル・ポルノの始祖ですね? 「ハイパーグラフィア」 過書。大量の文章を書いてしまう症状。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※一時期の京極夏彦? 「アイデティカー」 明確な視覚イメージと、それを操作加工する能力を持つとされている。 この能力は、かなり多くの子供がそれを持ちつつも、成長とともに弱わまるという。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※アイデディカー・直観像資質者。 過去の体験を細かいところまで正確に記憶してしまう能力を持つ人。 直観像。 以前に見た事物が、あとになってもまるで眼前にあるかのように鮮明に見える現象。またはその像。 私も大昔の映画やアニメーションの細かいディテールまで覚えている事があります。そしてそれを観直してみると、自分の思い込み勘違いだと判るのです。 じゃ、駄目じゃん。 しかし石ノ森はセクシュアリティとヴァイオレンスの特異的結合を「発見」したという点で、重要な作家のひとりであることは間違いない(P174)。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 俺は違うと思う。 どうもこの本、というか作者、精神科医だか心理学者だか、文章が長ったらしく読みづらく悪文である上に、書いてる内容も時々間違っていると思う。 「このジャンルにおける創造性の特異な発言例として記憶に留めておこう」、なんだ?この長ったらしく何を言っているんだか判らない悪文は! この人こそ「ハイパーグラフィア」じゃないのか? ※齋藤環は、石森章太郎は「色っぽさ」と「暴力性」は似ている事を「発見」した、と言っているのかな? そんなの石森以前、5億人ぐらいの作家が散々言っとるわい! ヒロインであるナウシカ、あるいはサンは、ともに異なった二つの世界を媒介するような位置を占めている。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※ラナ(未来少年コナン)は、ハイハーバーとインダストリアという異なった二つの共同体を媒介する少女だし、 クラリス(カリオストロの城)は、高貴と下賤を揺れ動く少女だし、 シータ(天空の城ラピュタ)は、天と地を繋ぐ少女であるし、 ソフィー(ハウルの動く城)は、老獪と無垢の二つの世界に翻弄される少女なわけだし―、 要するに。 上のロジック・視点は、何にでも当てはまるという事。 いかに精神科医のアニメ評が「いい加減」「自分に都合の良い理論」であるか判るのであります。 荒木が愛好するのは映画・小説・ロックであり、いずれもおたくの苦手科目ばかりである。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 荒木飛呂彦は「おたく」向けの絵柄を平板なものとして退ける、とある。 違うんじゃないかな。 小説も映画もロックも好きな「おたく」はいっぱいいるだろう。 ※たぶん、最初に「映画・小説・ロック」に目を向けて、ある程度成功した漫画家は「鴨川つばめ(1957〜)」だと思います。 アニメ作家であるためには、この平板な世界に耐え、むしろそれを偏愛する才能を必要とするのだ。 そして、この才能を育む契機となるのが、アニメに「萌え」るという行為である。 すでに宮崎駿について指摘したように、アニメを愛することはすなわち、アニメの美少女を愛する「萌える」ことなのだ。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 違うんじゃないかなあ。 「宮崎駿について指摘した」というのは、彼が学生時代 東映動画の白蛇伝を見てヒロインに惚れた、というエピソード。 ※「アニメを愛することはすなわち、アニメの美少女を愛する『萌える』ことなのだ」。 これも全然違うと思うなあ。 アニメの美少女に萌える事がなくても、アニメが好きな人はたくさんいるからです。 むしろ、そちらの方が多い。 そして、ご存じの様に、宮崎駿は白娘に「萌えて」東映動画に入ったワケではありません。 ゴダールは「女と銃があれば映画は作れる」と、いささか皮肉に断言してみせる。 なるほど。 つまり「セックス&バイオレンス」が大衆映画の基本だと言う事。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 ※石森章太郎以前に、「ゴダール」がセクシュアリティとヴァイオレンスが物語には必要だ、と言ってるじゃんよ! ファリック・マザーが「ペニスを持つ女性」なら、ヒステリーとしてのファリック・ガールは「ペニスに同一化した少女」だ。 ただし、そのペニスは空洞のペニス。 もはや決して機能することのない、がらんどうのペニスにほかならない。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 なぜ日本、おたくに戦闘美少女が流行るかというと、それが「ファリック・ガール」だからだと言う。 違うんじゃないかなあ。 ※精神科医だか精神分析医ってホント、昔から「ペニス」って言葉好きですよねえ。トホホです。 これは何でしょう、精神科医になったからにゃ、一日に一回は「ペニス」って言わにゃならん、とか決まっているのでしょうか? 「エヴァンゲリオンの綾波レイに関して」 存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如・・・。 彼女は空虚さゆえに、虚構世界を永遠の住処とすることが出来る。 「無根拠であること」こそが、漫画・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生させるのだ。 つまり彼女は、きわめて空虚な位置に置かれることによって、まさに理想的なファルスの機能を獲得し、物語を作動させることができるのだ。 そしてわれわれの欲望もまた、彼女の空虚さによって呼び覚まされたものではなかったか。 斎藤環「戦闘美少女の精神分析(2000)」より。 彼は戦闘美少女が皆、空虚でそれゆえ性を意識させ、それゆえ「おたく」に受ける、としたいらしい。 違うと思うなあ。 ※「新世紀エヴァンゲリオン(1995〜96)」の超ヒットの後、湯水のようにアニメ評論家や社会学者や精神科医がドッと湧(ワ)いて来て、様々な解釈本を出版していました。 ○○や○○、○○等です。 もちろん中には有益な本もありましたが、多くは自分の知識自慢やら思想・政治主張やらで、とっても閉口したのです。 「爆笑問題の日曜サンデー」 。 日曜日、午後のTBSラジオ。 今気がついたんだけども、このタイトルって凄いなあ。 「爆笑問題の人間ヒューマン」とか「爆笑問題の人生ライフ」みたいな単に「英語でもう一回」ってタイトルだもんなあ。 ※前に書きましたが、大昔、有名代理店のコピーライターが、得意満面に「健康的な生活。それを私たちはヘルシーライフとよびます」と自作を発表していた事を思い出します。 まず中編はここまで。 昔の日記からの抜粋なので、記述間違いや出典間違いがあるかも知れません。 その場合は、間違いを教えていただければ、これ幸いなのであります。 このまま後編へ続きます。 |
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