ホラー映画を観ていると、よく「主観カメラ」の映像が出てきます。 「主観カメラ」とは、カメラが「誰かの見た目になって対象物を映し出す」、という撮影方法の事です。 ホラー映画に多用される「主観」は大別して二つ。 A)カメラが「被害者の主観」となる場合。 B)カメラが「加害者の主観」となる場合。 というモノであります。 例えば、映画のヒロインが怪物が潜んでいる屋敷に夜、一人訪ねていった場合のAパターンはこんなカンジです。 もう何十年も朽ち果てたままの郊外の古い屋敷。その屋敷に私はランタンの灯り一つで入っていく。玄関の重く軋む扉をようやく開けると中は吹き抜けの広いロビー。ランタンの頼りなげな光で浮かび上がるロビーの壁に掛かった巨大な肖像画。その古い肖像画の令嬢が微かに微笑んだように見えたのは私の錯覚だったのかも知れない。足下を照らし、所々腐っている二階への階段を注意深くゆっくりと上がっていく。そして二階。三つ並んだドアの向こうにさらに奥に通じる廊下が見える。角を曲がり、その廊下を進む。通路の両側にはシンメトリーに合計八つのドアが並んでいる。壁に掛かった数枚の妙に磨かれた新品同様の鏡が私の恐怖の表情を順番に映し出していく。さらに廊下を進んでいくと、一番奥の右側のドアが僅かに開いているがわかる。私の恐怖は最高潮に達する。「今、引き返さなくっちゃ」と身体の全細胞が最大限のボリュームで警告音を鳴らすが、魅入られた様に私はその奥の扉に向かって進んでいく。やがてその扉の前。恐る恐る扉を全開し、部屋の中にランタンを差し入れる。床に錯乱したおもちゃからここがかつて子供部屋だった事が分かる。誰もいない・・・。と思った次の瞬間、扉の陰から仮面を付けた異様な巨体の男が突然目の前に現れる。頭上に振りかざしているのは目映い光を放つ大きなナイフ。仮面の顔は笑っている。夜の屋敷に私の絶叫がこだまし、数秒後、辺りはまた静寂に包まれる・・・。 また同じシチュエーションでのBパターンは例えばこんなカンジです。 三階の屋根裏部屋の表を見渡せる窓から一人の女が屋敷に近づいて来るのが見える。手にはか細い光を放つランタン一つ。さっそく屋根裏部屋から二階へ降りる。階下を見下ろす二階の手摺りの陰に潜み、その女が屋敷の中に入ってくるのを見守る。必要以上に怯えたその表情が彼女の持つランタンの光に照らし出され、神秘的に少々美しく見える。彼女の持つ光はここまでは届かない。くくく。恐ければ来なきゃいいのに。一階ロビーの壁に掛かっている大祖母の大きな肖像画を見てギョッとする彼女。その表情を見て何故か死んだ幼い妹を思い出す。二階への階段を上ってきた。ゆっくりと後退し、一番奥の部屋に隠れる事にする。少し開いたドアの隙間から彼女がまるで機械仕掛けの人形の様にこの部屋を目指して歩いて来るのが見える。ここに来ちゃ駄目なのに。でも、ここにおいで。ボクの可愛い妹。そして彼女は扉の前。ボクは扉の陰に身を隠す。ドアが全開し、まず彼女のランタンが部屋の中に入って来た。そして続いて彼女。部屋の中の散らばったおもちゃを見て彼女は少々意外そうな顔をした。ボクのおもちゃを取ろうとしたって駄目だい。次の瞬間、彼女の前にボクは身を躍らせた。手にはいつものおばあちゃんのナイフ。まん丸に見開かれた彼女の眼。信じられないぐらい開かれた彼女の口。鼻の穴も醜く大きく広がっている。なぁんだ。こいつボクの可愛い妹じゃないや。夜の屋敷に彼女の絶叫がこだまし、数秒後、辺りはまた静寂に包まれる・・・。 さて、あなたはどちらのパターンが好きですか? どちらの方が「恐い」と思いますか? 以前読んだ本によると、「恐い」と感じるのには、「原初的恐怖」と「経験的恐怖」の二つに大きく分ける事が出来る、とありました。 例えば、生まれたばかりの赤ん坊が暗闇の中で激しく怯えたように泣き出す事があります。誰も「暗闇ってのは恐いモノなんだよ」と教えなくても、赤ん坊はその暗闇に恐怖や危険を感じ、泣き出すのです。 母親の胎内にいた時は、母親の皮膚を通じて微かな光があったとは言え、基本的には暗闇の中にいた赤ん坊が何故それを恐れるのかと言うと、太古の人類の歴史から「暗闇の中には危険な野獣が潜んでいる」という「原初的」な記憶が呼び起こされ、誰に教えられたのでもなく、暗闇に恐怖を感じるのだそうです。 また反対に、赤ん坊は「険しい断崖絶壁の崖」をまったく恐れないそうです。 大人なら足がすくんで近寄ることも出来ない崖の端に、トコトコと近づいて行ったりします。 この私たち大人が当然の様に感じる「断崖絶壁の崖が危険で恐いモノである」というのは、「経験によって教えられた恐怖」なのだそうです。 ホラー映画における「被害者主観」と「加害者主観」の場合も、この「原初的恐怖」と「経験的恐怖」に分けられるのではないでしょうか。 得てして、その行く先に何かが潜んでいそうな暗闇の中を進む「被害者主観カメラ」は「原初的恐怖」を感じさせ、「いつかこいつは襲われる」事を予感させる「加害者主観カメラ」は「経験的恐怖」を感じさせるのではないでしょうか。 「原初的恐怖」であるが故、「被害者主観カメラ」はホラー映画に多用され、例え稚拙な演出であったとしてもある程度の「恐怖」を観る者に与えてくれます。 片や「経験的恐怖」である「加害者主観カメラ」には「緻密」な「演出力」が必要となります。 当然、加害者の見ている対象物「被害者」の役者の「演技力」も重要な要素となるでしょう。 私が思うに、「被害者主観」はその文字通り映画を観ている人の「実感」に訴えやすく、それだけに「演出的には定番」「平凡」になりがちな気がします。 また、「加害者主観」は演出上の難しさもあり、成功している例は少ない様な気がします。 が、難しい分だけ、上手く行けば「映画的に最大限の効果」を上げる事も確かなのではないでしょうか。 映画の演出的に「高度」なのは明らかに「加害者主観」の方だと思うのです。 近年の映画でのこの成功例は、「ジョナサン・デミ」監督の「羊たちの沈黙」です。 連続猟奇殺人犯の「バッファロー・ビル」の本拠地に乗り込んだFBI新人女性捜査官の「クラリス」。 突然建物の中の電灯は切られ、暗闇の中で狼狽するクラリス。 犯人のバッファロー・ビルは「赤外線暗視スコープ」を装着し、暗闇の中でクラリスを追いつめていきます。恐怖と困惑で歪むクラリスの表情を、カメラはまるで舐め回すかの様に執拗に捉えていきます。 大変素晴らしい演出であったと思います。 あ。 ここまで書いてきて今、気がついた。 「被害者主観カメラ」が好きか「加害者主観カメラ」が好きかは、実は映画を観ている人が基本的に「マゾ」か「サド」かによるのでは・・・。 うーん、そういう事だったのかあー。 |
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