頭脳明晰にして、邪悪。 偉大な数学者にして、犯罪者たちの王。 そう、ホームズの最大の宿敵「モリアーティ教授」の事であります。 ホームズ物語を読んだ事がない人でも、この名前はどこかで聞いた事があるのではないでしょうか。 しかし、この有名なモリアーティ教授も、全60作あるホームズ物語の中で登場するのはわずかに「2作品のみ」という事実はあまり知られていないと思います。 その2作品とは、「最後の事件」と「恐怖の谷」であります。 (ちなみに、過去の思い出話として単に名前だけが登場するだけなら他に、「空き家の冒険」「ノーウッドの建築業者」「スリークォーターの失跡」「有名な依頼人」「最後の挨拶」の5作品がある)。 モリアーティ教授が初めて登場したのが「最後の事件」という話でした。 モリアーティは若干21歳の時に「二項定理」という論文を書き、それが認められ大学の数学教授となります。その後も、ホームズ曰く「純粋数学についての最高の書」という「小惑星の力学」などでその地位を確固たる物にします。 が、突然、学会から姿を消し、その数年後には「犯罪界の陰の帝王」となっていたのでした。 その彼の真の姿を知っている者はホームズのみ。 ロンドン警視庁である「スコットランド・ヤード」も、モリアーティの事は「有名な引退した元数学者」としか思っていなかったのです。 モリアーティに関してホームズはこう言っています。 「天才で、哲学者で、理論的思索家だ。最高級の頭脳の持ち主だ。巣の中央のクモのようにじっとしているが、この巣には放射状の糸が千本もあって、どの一本がふるえても彼にはぴんとくる。自分ではほとんど何もしない。計画を立てるだけだ」。 また、ホームズはモリアーティを「犯罪界のナポレオン」と皮肉を込めて称えたりもしています。 そして、初登場の作品「最後の事件」においてホームズはこの諸悪の根元モリアーティに真っ向から戦いを挑み、なんと物語のクライマックスで二人はスイスのライヘンバッハの滝に落ちて共に絶命する事になります。 そう、あの有名な「モリアーティ教授」は初登場でいきなり死んでしまうのでした。 一説によれば、ホームズ・シリーズの執筆に嫌気がさしたコナン・ドイルが、ホームズを抹殺するために用意した「最大の敵」という安易な設定であった、と言います。その証拠に「最後の事件」の前に書かれた25作品には一切、モリアーティの名前は出てこないのです。 しかも、「最後の事件」から数年後、ホームズの方はちゃっかりと一人だけ「空き家の冒険」という話で復活を遂げますが、モリアーティ教授の方は「やっぱりあの時に死んだ」という事になっているのでした。 散々、初登場の「最後の事件」で、「犯罪界のナポレオン」だの「ホームズの宿命のライバル」だのと持ち上げておいて、「たった1作だけのキャラクター」に、当時のホームズ物語ファンの大顰蹙を買いました。 そこでドイルは、時代を遡って、生前のモリアーティ教授の話をもう1作だけ書く事にしました。 それが「恐怖の谷」という話です(「最後の事件」が書かれた21年後の1914年に発表された作品)。 しかし、この「恐怖の谷」の中では、ホームズとモリアーティの直接対決がないばかりか、「恐怖の谷事件の陰の首謀者」という形でモリアーティの事がホームズによって語られるのみなのでした。 基本的にはこの2作品がモリアーティ教授の全てなのです。 それでは何故、「ホームズのライバルと言えばモリアーティ教授」というぐらい、その名前が有名になったのでしょうか。 一つにはモリアーティ教授の印象深い初登場の仕方にあると思います。 「最後の事件」において、ホームズはワトスンにモリアーティ教授の事を語り、「彼と最終決着をつける決意をした事」を伝えます。 そんな時のとある朝、突然、大胆不敵にもモリアーティ教授は単身「ベイカー街221B」のホームズの住む部屋に乗り込んでくるのでした。 その時のモリアーティ教授の描写がこうです。 「ひじょうに背の高いやせた男で、白い額がまるくつき出ていて、両の目はふかくおちくぼんでいる。ひげをきれいにそっており、顔色は青白く、苦行者風なところがあり、どこか教授らしい面影をとどめているのが見られる。研究生活のせいで猫背になって、顔が前にとび出しており、体はいつも、爬虫類を思わせる奇妙なようすで、ゆっくりと左右にゆれている。ほそめた目に満々たる好奇心をうかべて、じっとぼくを見つめていた」。 事前にお互いがそれぞれの事を調査・研究し、そのお互いの大きな存在を認めていたものの、実際に顔を合わせるのはこの時が初めてなのでした。 「まあお掛けなさい。話がおありなら、五分間はさいてもいい」とホームズ。 「何をいいにきたか、先刻ご承知のはずだ」。 「では、こっちの返事も先刻ご承知だろう」。 これがシャーロキアンたちに後世長く語り継がれることになる有名な「五分間の邂逅」というエピソードです。 また、当時の挿し絵画家「シドニー・パジェット」によって描かれた教授の絵の印象も強烈でした。 長身で痩せていて猫背、そして大きな額を持ち、まるで骸骨の様なその容貌は、私の大好きな日本の個性派俳優「天本英世」にどことなく似ています。 彼が演ずる「キングコングの逆襲」の「ドクター・フー」や「仮面ライダー」の「死神博士」は、まさに「モリアーティ」のイメージです。 また、もう一つのモリアーティ教授の名前が有名になった理由は、後世の「シャーロキアン」たちによって数多く発表された研究論文、またはパスティーシュ小説やパロディ小説などの作品の存在も大きいと思います。 有名なシャーロキアンである「ベアリング・グールド」は、「モリアーティ教授は昔、ホームズ家の家庭教師を務めていたのではないか」という説を唱えています。 また別のシャーロキアンは、「その当時、家庭教師を務めていたモリアーティ教授はホームズの母親と不倫の関係にあった」という大胆な説を唱えたりしています。 ホームズが執拗にモリアーティを憎んでいたり、また大人になって極端な「女嫌い」になった理由がそこにある、と言うのでした。 また「知力においてホームズとほぼ互角」であるというモリアーティは、心理学で言うところの「ホームズのシャドウ」の様でもあり、そこから「モリアーティ=ホームズ」という説を唱える人もいます。 まるで「ジキル博士とハイド氏」の様に、モリアーティ教授はホームズの一人二役だと言うのです。 さらには、あまりのモリアーティの登場シーンの少なさと、ホームズがコカイン中毒患者であったという事実から、「モリアーティはホームズの妄想によるもので実際には存在していないのだ」という説もあります。 また、パロディ小説の中には「モリアーティは実は美貌の女だった」というヤツもありますし、「ホームズの孫娘がモリアーティの孫娘と再び因縁の対決をする」というヤツもあります。 ホームズがまったく登場しない「モリアーティ小説」というモノもあります。 宮崎駿のアニメーション「名探偵ホームズ」では、毎回ホームズにやっつけられる愛すべきドジな悪役でもありました。 「モリアーティ=ホームズ」説はさすがに行き過ぎだとは思いますが、それでもホームズは自分と同等の聡明な知力を持ったモリアーティに対して、一種の「同族意識」を持っていたのではないでしょうか。 ある種の「共感」を持っていたのではないでしょうか。 何故なら、ホームズ自らこう言っているからです。 「犯罪専門家の立場からいうと今は亡きモリアーティ教授の死以来、ロンドンは奇妙なほど退屈な都になったな」(ノーウッドの建築業者)より。 |
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