SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.27
「SF映画における『黒板』の格好良さ」
について

(2002年6月14日)


昔のSF映画にはよく「黒板」が出てきたモノです。
数あるSFガジェット(小道具)の中でも、この「黒板」は隠れた傑作SFガジェットなのでは、などと思っている私です。
私はSF映画に出てくる「黒板」が大好きなのです。
いや、正しくは、SF映画に出てくる「黒板を使用するシーン」が大好きなのです。
あ、ちなみに、この「黒板」とは、学校の教室にある、あの「黒板」の事です。
「2001」に出てくる「モノリス」の事ではありません。

そこで今回は、SF映画に登場した「黒板」で印象的な使われ方をした例を三つ上げたいと思います。


まず、昔の海外SFテレビシリーズの「タイムトンネル(1966-1967)」。
その「第3話 世界の終わり」から。
「時の放浪者」となってしまった科学者の「ダグ」と「トニー」は1910年のアメリカの片田舎にタイムトラベルして来ます。
そこでは、人々が天空を見上げ絶望感で大パニックとなっていました。
そう、「ハレー彗星」が地球に接近しており、みんなそれがもうすぐ地球に激突してしまうと信じ込んでいたのです。
そんな時、村の外れにある「炭坑」で大勢の仲間が生き埋めになる事故が起こります。が、人々は「どうせみんな死んでしまうんだ」と、救助隊を出そうともしません。
未来からやって来た「ダグ」と「トニー」にとっては、その「1910年のハレー彗星大接近」は「地球には激突しない」という「過去の事実」を知っており、それを力説しますが、村人たちは全く信用せず、夜空に浮かび上がった大きな彗星を見上げて虚無感に囚われ、ただ最後の祈りを上げるのみ。
何よりも、村にある天文台の偉い科学者が「彗星の激突」を認めていると言うのです。
そこで、「ダグ」は単身、その科学者「アインズリー」の元に訪れ、「激突は起こらない」事を説得しようと試みます。
アインズリー「全てのデータは激突を指し示しているのだ」。
ダグ「でもそれは事実と違います!」。
アインズリー「君はそれを証明できるのかね?」。
ダグ「やってみましょう」。
天文所の大きな「黒板」に向かい、彗星の軌道と地球の軌道の複雑な数式を書き始めるダグ。冷ややかにそれを見つめる科学者。
一心不乱に計算式を書き続けるダグ。
長い時間がかかり、大きな黒板が数式で一杯になります。
そして最後に出た結論は・・・、「彗星は地球に激突する!」。
愕然とするダグ。
もうメチャクチャ格好良いシーンなのでありました。


次に「ロバート・ワイズ」監督の傑作SF映画「地球の静止する日(1951)」から。
アメリカとソ連の冷戦時代に宇宙の彼方から一隻の円盤が地球に飛来します。
目的は地球での不必要な核戦争を回避するためで、やって来たのは高度な文明を持つ人間型宇宙人「クラートゥ」と従者ロボット「ゴート」の二人の「調停者」でした。
(このロボット・ゴートの格好良さは特筆すべきモノがあります。古今東西のロボットの中でも私の好きなロボット・ベスト3に入ります。が、その話はいずれまた)。
クラートゥは地球での協力者を得るべく、高名な物理学者の元に一人訪ねてきます。
しかし、あいにく、その物理学者は不在なのでした。
通された学者の書斎。
そこに長年かかって学者が取り組んだまま未完成になっている物理数式が書かれた「黒板」がありました。その途中で断念されている数式を見て、クラートゥはその結論部分に当たる箇所をスラスラを書いていきます。
止めようとする案内をしてくれた老家政婦の非難も聞かず、クラートゥはそれを書き上げてしまいます。
「私はまた来ます。博士によろしくお伝え下さい」とクラートゥ。
老家政婦は主の留守中に不審者を書斎に入れ、その挙げ句、博士の大切な研究に落書きされたのを後から博士に叱責されるのを恐れ、その書き込みを慌てて消そうとします。
それを見て去り際のクラートゥがこう言います。
「それは消さない方がいい。後で博士がきっとお喜びになります」。
うーん、メチャクチャ格好良い!


そして、「スティーブン・スピルバーグ」監督の名作SF映画「E.T.(1982)」。
このあまりにも有名なSF映画にも印象的な「黒板」シーンが登場します。
フトしたことから宇宙からの遭難者「E.T.」を自宅にかくまう事になった少年「エリオット」。
最初はお互いを警戒していた二人ですが、次第にお互いが「共感」していく事になります。
それは文字通り、互いの精神が互いに影響し合う「テレパシー」状態での「共感」なのでした。
ある日、自宅に「E.T.」を隠し、一人小学校に行くエリオット。
その学校での「算数」の授業中。
教師から指され教壇の「黒板」に向かったエリオット。
そこで「E.T.」との「共感作用」が始まってしまいます。
自分でも無意識のまま、出された「算数」の答とはまったく関係のない、意味不明の数式を「黒板」に猛スピードで書き始め出すエリオット。
それは既知の地球の科学ではない、異星の「恒星間ロケット・エンジン」の高度な仕様書なのでありました。
何が起こったのか分からないまま、唖然とする教師と生徒たち。
(この映画のメイキング本を見ると、このシーンには黒板からはみ出して教室の壁にまでその数式を書き続けるエリオットの場面があります。映画ではカットされたシーンです。SF者の私としては、それはカットすべきじゃなかったのになあ、などと思うのでありました)。
実は私、「E.T.」はあまり好きなSF映画じゃないのですが、このシーンだけは「良しっ!これぞSFっ!」などと感激したモノなのでありました。


今日日のSF映画ではこの「黒板」は滅多に登場してきません。
それはみんな「コンピュータのCRT画面」や「投射スクリーン」に変わってしまっているからです。
しかし、どんなに華麗にコンピュータのキイボードを叩いていようが、そこには何ら「SFマインド」を感じない私です。
自分の身長よりも高い大きな「黒板」の隅から隅まで、「カツカツカツ!」と激しく手に持ったチョークを叩き付けながら次から次へと数式を繰り出していくそのアクションのダイナミズムは、手元だけで「カチャカチャ」しているコンピュータのキイボード操作のアクションよりも、より大きなSF的爽快感を私に与えてくれるのでした。

そして何よりも、この「黒板」が登場する昔のSF映画には「『知』によって困難に立ち向かっていく」という、今のSF映画が忘れている「素晴らしきSFマインド」があった様に思うのです。
人間の(そして異人類の)「知」の象徴が、これらの「黒板シーン」であったと思うのでした。
(もちろん、一概には言えませんが、最近のSF映画は『知』によって困難を克服するというよりも、『まずは行動ありき』というモノが多いような気がします。ま、それはそれで面白い作品もあるのですけども)。


このエッセイの最初に、「ここで言う黒板とは、2001のモノリスの事ではない」と書きましたが、よく考えてみますと、「知」を蓄え「知」を伝え、そして「知」を啓発するという意味に置いては、あの「モノリス」もSF映画における正統的な「黒板」の一種なのかも知れません。

などと穿った結論を出しつつ、本エッセイは終わるのでありました。


(追加補記)
最近観た「タイムマシン(2002)」にも、印象的な「黒板」シーンが登場していました。
恋人を亡くした主人公が、研究室の壁いっぱいに置かれた「黒板」に、狂ったように数式を書き連ねるシーンです。
この映画も「黒板SF」の一つでありましょう。
結構好きなシーンです。
お話はツマラナイ映画でしたけど・・・。




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