SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.29
「大島弓子の真綿の温かさ」
について

(2002年6月24日)


大学生時代、知り合いの女の子に勧められて読み始めたのが、「大島弓子」の漫画でした。
ある日、「これ絶対、SYUさん、ハマりますから」と言って、一気に4冊の大島弓子の単行本を貸してくれたのでありました。


「手塚治虫」の「まんがの描き方」によれば、「フキダシの中のセリフは7行まで」とありますが、大島弓子の漫画を最初に見て、まずビックリしたのはそのセリフの多さでした。

「そう
17年前
恋をして結婚して
あなたを生んで
10年前
とうさまが
おなくなりに
なったときは
もうかなしくて
こんりんざい
恋などするものかと
意を決して
あなたと
手をとりあって
くらしてきたわ」
(『F式蘭丸』より)。

これが大島弓子の一個のフキダシの中に入っているセリフの量です。
これだけで軽く15行もあり、そしてこれが決して大島弓子の漫画の中では特殊な例ではないのです。
ほとんどのフキダシに、これぐらいの分量の文字が「ギュウギュウに」詰め込まれているのです。
さらに、これは一個のフキダシの話。
大島弓子の「一つのコマ」の中には、この様な大量の文字が詰まったフキダシがさらに「2つ3つ」平気で置かれているのです。
中には絵がまったくない「フキダシだけのコマ」があったり、さらにはそのフキダシすら描くのが疎ましいのか「文字だけが並んだコマ」があったりして、それまで私が読んでいた漫画とは全く違う「世界」がそこには広がっていたのでありました。
「これははたして漫画なのか?それとも小説に漫画が付いたモノなのか?」と、ひどく驚いたのが私の大島弓子の第一印象なのでありました。

何度挫折しそうになった事か。
その度に、「絶対ハマりますから」と言って貸してくれた彼女の顔が目に浮かび、半ば「修業」の様に4冊の単行本を読み進めた私なのでありました。
そして全部を読み終えた時、私は彼女が言った通りに「大島弓子にハマって」いたのでありました。

まるで機関銃のように紡ぎ出される登場人物たちのセリフの「妙」。
緩急自在に読む者の「時間」を操るコマ割りの巧さ。
「知的」で「詩的」に展開する物語の面白さ。
そして登場人物たちの持つ「苦悩」や「無垢さ」を的確に表現する演出の上手さ。
今まで私が知っていた「少女漫画」とはちょっと違う、いや、かなり違う「少女漫画」が、そこにあったのでした。


初期の大島弓子は「少女漫画家」でした。
「セリフの妙」や「特異なキャラクター」という優れた点は最初の頃からあったものの、扱っている物語は「少女の恋愛問題」だったり「出生の秘密」だったり、従来の「少女漫画」によく見かける様なお話だったのです。
それがやがて、「少女漫画家」から「女性の漫画家」へ、そして「作家」へと大きく変化していったのです。
まずそれは絵に顕著に現れてきました。



これが初期の大島弓子の描く瞳の絵。
(私の模写ですので微妙に似てない点はご勘弁)。
他の漫画家同様、「ベタ」によって塗りつぶされており、「ハイライト(いわゆる星)」がキラキラ輝いています。



変化した瞳の絵。
(これも模写。結構難しいなあ)。
もはや「ベタ」は使わず、「線画」だけで描かれています。

この変化は「1973年」から「1974年」にかけて徐々に行われ(ベタが段々少なくなり、代わって線が段々多くなる)、そして「1975年」に発表された「F式蘭丸」で完成したスタイルになったと私は思います。
そして、大島弓子のキャラクターたちがこの「遠くを見つめる無垢の瞳」を獲得したと同時に、物語も従来の「少女漫画」の世界から大きく飛び立っていく事になるのでした。

「F式蘭丸」(フロイトしき・らんまる、と読みます)は、お話的にも後の大島弓子の全ての「ベース」となった記念すべき作品であり、これによって大島弓子は単なる「少女漫画家」から「女性の漫画家」になった「特異点」であったと私は思います。
母の再婚話を期に出現する「よき子」のボーイフレンド「蘭丸」。
「よき子」の窮地には必ず現れる彼は、「よき子」の現実逃避がもたらした妄想の産物でした。
今でこそ珍しくもありませんが、その当時において、「フロイト」やら「二重人格」「精神分裂」といった心理学的内容が漫画に盛り込まれる事は、少年漫画や青年漫画はもちろん、少女漫画においてさえ希有な事だったのです。
私はこの作品で(友人から借りた本の中の一冊がこれでした)完璧に大島弓子にハマったのでした。

その時期の大島弓子の作品にも、私の好きなモノがたくさんあります。
「いちご物語」「リベルテ144時間」「すべて緑になる日まで」「アポストロフィーS」「七月七日に」「さよなら女達」「夏の終わりのト短調」「バナナブレッドのプディング」等々・・・。
私はやがて、自分から大島弓子の本を探し、そして購入して読むようになっていました。
そして、1978年、あの「綿の国星」が発表されました。

主人公は小さな子猫。
「でも大きくなったら人間になるんだ」と思い込んでいる彼女の姿は、エプロンドレスを付けた小さな人間の女の子の絵で描かれていました。
(後世の同人誌漫画で見かけるエプロンドレスの猫耳少女のオリジナルはここにあると思いますが、それらの作品は、間違った進化を遂げた大島弓子の絵の末裔たちという気がします。ま、そおいった間違った亜流たちを生み出すのも、それはそれで実は『正しい漫画文化』なのかも知れないのですけども)。
猫である事を証明するのは頭についた「猫耳」とお尻の尻尾だけ。それ以外は周りの人間たちとまったく同じ人間の姿として描かれているのです。
なんで?
理由は簡単。
「だって彼女は人間になろうとしているんだから」。

子供の頃から漫画好きだった私は、多少の事では漫画には驚かされない自信があったのですが、この時はもの凄い衝撃を受けたのでした。
「漫画ってこおいう事が出来るんだ!漫画ってこおいう事をやっても良いんだ!」と初めて知らされたのです。
「漫画だからこそ出来る表現」「漫画じゃなきゃ出来ない表現」に、心底感銘し驚愕したのです。
この私の受けた衝撃は、当時、漫画界全体への衝撃でもあったと思います。
動物を擬人化したり、動物と人間が対等に会話をしたりする漫画なら過去にもたくさんありました。でも、「人間」の姿を描いておいて「これは実は猫です」という漫画演出をした作品は、これが初めてであったと思うのです。

そして、大島弓子は堰を切ったように、その後、次々と名作、傑作、話題作を描いていきます。
「草冠の姫」「パスカルの群れ」「たそがれは逢魔の時間」「四月怪談」「赤すいか黄すいか」「雛菊物語」「裏庭の柵をこえて」「桜時間」「金髪の草原」「夢虫・未草」「水枕羽枕」「あまのかぐやま」「快速帆船」「ノン・レガート」「ダリアの帯」「秋日子かく語りき」「庭はみどり川はブルー」「水の中のディッシュペーパー」「山羊の羊の駱駝の」「つるばらつるばら」「夏の夜の獏」「ダイエット」「毎日が夏休み」、そして一連の「サバ」シリーズ等々・・・。

「F式蘭丸」でハマり、「アポストロフィーS」で大好きになり、「バナナブレッドのプディング」で感動し、「綿の国星」で衝撃を受け、「四月怪談」で泣き、「金髪の草原」でさらに泣き、もうこれ以上泣く事はないだろうと思っていると「ダリアの帯」でさらにさらに泣き、「秋日子かく語りき」でわんわん泣いた私なのでありました。
もちろん、お話に感動して泣いたのです。


大島弓子が繰り返し繰り返し描いているテーマに「疎外されし者の孤独」があります。
もしくは「異物としての哀しみ」と言い換えても良いかも知れません。

「F式蘭丸」においては、母が自分から離れていく恐怖から「よき子」は架空の友人を作り上げ、「バナナブレッドのプディング」においては、「三浦衣良(みうらいら)」は優しさゆえに「人喰い鬼」と化し、「綿の国星」においては、成長すれば人間になれると信じていた「チビ猫」が成長と共に「人間にはなれない」事実を確信し、「四月怪談」においては、「何のとりえもないから」と言って「国下初子」は霊界に留まる事を望み、「金髪の草原」においては、主人公「日暮里歩(にっぽりあゆむ)」は年老いた老人となった現実から目を背け妄想世界の住人となり、「ダリアの帯」においては、若妻「黄菜(きいな)」が夫を愛するあまり狂気の世界へと入り、「秋日子かく語りき」においては、54歳の中年主婦「久留竜子」は死んだ後に家族愛に目覚め苦しむのです。
大島弓子の漫画で語られるのは、「異物としての哀しみ」を抱いた者の「妄想・狂気・異界への憧れと移行」、そして、そこからの「帰還」の物語なのだと私は思います。
「金髪の草原」の「日暮里歩」が、最後に妄想の世界から現実の世界に戻った時、彼の寿命は尽きる事となります。
それでも彼が最後に言った「現実に戻れてよかった。ああ、ほんとうに戻ってこられてよかった。すばらしい」というセリフは、身も蓋もない言い方をしてしまいますと、大島弓子の作品全部のラストのセリフとして有効なのであります。
現実と妄想の世界との折り合いを何処でつけるか、楽しい妄想の世界で生きる事は本当に楽しい事なのか?厳しい現実の世界で生きる事は本当に厳しいのか?、大島弓子の作品は私にそう語りかけてくるのでありました。

私の心の「ツボ」を突き、今でもいくつかの作品は読み返す度に改めて感動し、涙がポロポロ溢れてくるのでした。


大島弓子を知る前に、私には「樹村みのり」という好きな女性漫画家がいました。
そのどちらにも共通するのは、読後、とても優しく温かい気持ちにさせてくれるという点でした。
しかし、その二人の作家の「温かさの質」はかなり大きく違っていると感じていました。そして、考えた末、樹村みのりは「肉体の持つ温かさ」で、大島弓子は「真綿の温かさ」なのだと私は思ったのでありました。
大好きな人に抱きついたり抱きつかれたりした時に感じる「温かさ」は、その相手自体が持っている「熱」が伝わってくる「温かさ」です。
真綿に抱きついた時に感じる「温かさ」は、自分自身が持っている「熱」が真綿に反射され戻ってくる「熱」です。真綿それ自体は「温かい」とか「冷たい」といった「熱」は持っていないのです。
私が大島弓子の漫画に感じる温かさは、この「真綿の温かさ」なのではないか、と思うのです。
これは決して「私は優しくて温かい人間だ」と言っているワケではありません。
でも、真綿は、その相手が持っている「微妙で微弱な熱」すら、正確に、そして多少「増幅して」返してくれている様に思うのであります。



大島弓子以降、私は前よりも多少積極的に「少女漫画」いや「女性作家」たちの作品を読むようになりました。
その中で、「高野文子」にめぐり会い、「川原泉」にめぐり会う事が出来ました。
一番最初に「高野文子」を読んだ時には、「おおっ!これは80年代の大島弓子だっ!」と思った私です。
そして、「川原泉」に出会った時には、「おおっ!これは90年代の大島弓子だっ!」と再び思ったのでありました。
これは極私論的なモノであり、多くの漫画好きにとっては(そして少女漫画好きにとっては)「大島弓子と高野文子と川原泉は何の関係もないじゃないっ!」という意見を持つでしょう。
そして、「大島弓子の正統的な後継者は、ちゃんと別にいるじゃないか!」と指摘する人もいるでしょう。
表現スタイルも違うし世界観も違う「高野文子」や「川原泉」に、何故「大島弓子」の流れを感じたのかは、あまり上手く説明できません。
単に「私の肌にあった好きな作家」というだけの共通点かも知れませんし、何か共通する「独自の作家性」という括りを見つけたのかも知れません。
「傷ついた癒し手」というキイワードも私の頭の中ではチラチラ見え隠れするのですが、これもあまり妥当ではないかも知れません。

というワケで、これに関しては「宿題!」という事にさせていただいて、本エッセイ、いつか続きを書こうと思っている次第なのでありました。



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