SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.35
「高野文子の幕間の気持ち」
について

(2002年11月1日)


「高野文子はとても寡作な漫画家です」。

これは高野文子を語る文章において、もはや「枕詞」の様になっているセリフです。

「絶対安全剃刀」(1982)。
「おともだち」(1983)(再販1993)。
「ラッキー嬢ちゃんの新しい仕事(1987)(再販1998)。
「るきさん」(1993)(1996)。
「棒がいっぽん」(1995)。
「黄色い本」(2002)。

これが、この6冊が、1977年にデビューして25年経つ高野文子の今までに出た作品集の全てなのであります。
世の中には「25年間で単行本が6冊」という漫画家が他にもいるとは思いますが、それらはみんな「忘れ去られていく」もしくはすでに「忘れ去られた」漫画家だろうと思います。
しかし、高野文子は「忘れ去られていく」どころか、「寡作」にも関わらず、毎年毎年多くの新しい読者を獲得し、ますます幅広いファンを増やしていく希有な作家なのであります。



私が一番最初に高野文子を知ったのは「田辺のつる」という短編でした。
これは1980年に「チャンネルゼロ」という大阪の出版社から出た季刊漫画雑誌「漫金超」の創刊号に載った作品です。
私はこの作品を初めて読んだ時の衝撃を今でも忘れる事がありません。

「田辺家」の祖母「つる」は戦争体験もある齢82歳の老女です。
彼女は「老人性痴呆症」により「幼児退行」しており、自分の事を「幼い子供」だと思い込んでいます。
そんな彼女を、高野文子はそのまま「幼女」の姿で描き、登場させたのでした。

この手法は2年前の1978年、「大島弓子」の「綿の国星」によってすでに成されていましたが(いつかは人間になるんだと思い込んでいる子猫の姿を、人間の小さな女の子の絵で表現した)、高野文子はさらにそれをパワーアップさせました。
「つる」のキャラクターだけが、他の登場人物とは違う「タッチ」で描かれているのです。
「田辺家」の主婦「ノブエ」や、その娘「るりか」、そして背景は全て線の多い「リアルタッチ」で描かれていて、「幼児退行」した祖母「つる」のみがシンプルな線の、まるで小さな子供が描いた絵の様なタッチで描かれているのです。
それは昔の「きいちのぬりえ」に出てくる様な絵柄でした。
これは、老女「つる」が一番幸せだった子供の頃に遊んだ「ぬりえ」の中の登場人物を、そのまま自分の姿に投影させているという事なのかも知れません。

(ちなみに、面白いのは、この3年後に大島弓子が『金髪の草原』という作品で、自分を若いと思っている老人の話『金髪の草原』を描いている事です。また、その5年後の1988年に、それをさらにさらにパワーアップさせた『夏の夜の貘』という漫画を描いている事です。この作品においては登場する全ての人物が『その人の精神年齢のまんまの姿』で描かれているのでした。つまり、惚けているおじいちゃんは『赤ちゃん』の姿に、大人びた主人公の小学生は『青年』の姿に、我が儘で自分勝手な両親は『子供』の姿で登場するのでした。この『1978年、綿の国星』→『1980年、田辺のつる』→『1983年、金髪の草原』→『1988年、夏の夜の貘』という流れは、普通の漫画家同士で行われたのであれば『単なるパクり合戦』とも見られてしまうのですが、大島弓子も高野文子もそれぞれ独自の世界観を持った一級の、いや天才級の漫画家、作家であり、それらの四作品はそれぞれがそれぞれの世界観を持ち、そのどれもが傑作漫画になっているのが凄いところだと思うのであります)。

お話は、その「田辺家」でおそらくは毎日繰り返されているであろう「日常生活」の断片を描いたモノです。
思春期にあり、惚けた祖母を疎ましく思っている高校一年生の孫娘「るりか」と「つる」のやり取りで物語は進行していきます。
事あるごとに無断で孫娘の部屋に入って彼女の物を勝手にいじる老女「つる」。
惚けた「つる」にとって「るりか」は自分の孫娘という認識はなく、近所の遊び友達だと思っている様子なのです。
「るりか」はそれが嫌で嫌でたまりません。
ある日、「るりか」の怒りは頂点に達します。
それは彼女が初めて部屋にボーイフレンドを呼んだ日の事でした。
「でてってよ いますぐよ!おばあちゃんなんか・・・ おばあちゃんなんかいつもよ!いつもひとりで変なこと言って変なことして こっちまでおかしくなるわ!めいわくよ!」。
部屋の外に閉め出される「つる」。
閉められたドア。
そのドアの向こうにいる「つる」の姿は、ここで初めて読者から見えなくなります。
そして、「つる」の姿が見えないまま、そのドアを背景に「つる」のセリフだけが聞こえてくるのでした。
それも堰を切ったように。

「るりちゃん るりちゃん」。
「「ごめんね もうしないから」。
「ごめんなさーい もうしません いい子になります」。
「ごめんさないごめんなさい いい子になりますから」。
「おかーさーん」。
「ここ ちゅうちゅうねずみでるんですー こわいのー あけてー」。
「きんぞーきんぞー いい子になりますね」。
「おとうさまが帰ってらっしゃいますよ」。
「早くここあけて出てらっしゃい」。
「あなた!」。
「あなた!ここあけて下さい」。
「何してらっしゃるんですか」。
「あなた はやまったことしないで下さい 私達どうしたらいいんですか」。
「ここあけて下さい」。
「お願いです あけて下さい」。
「あけてください!あけてください!」。

童女に描かれていた老女「つる」が、閉めきられたドアによって読者からその姿を遮断された時、初めて彼女は本来の姿を取り戻していたのかも知れません。
それも、決して幸福ではなかった彼女の人生を、まるで走馬燈の様に、幼女の姿から少女へ、少女から成人の女性へ、成人の女性から中年、そして老人の姿へとめぐるましくメタモルフォーゼを繰り返しつつ。

私はこのシーンに強く感動し、そしてまた強く「演劇的」な匂いを感じたのでありました。
初めて「田辺のつる」を読んだ時を前後して、私は少しだけ「小演劇」に凝っていた時期があったのですが、「高野文子の漫画は舞台劇の様じゃないか」と私は思ったのでした。

密閉された空間での一幕物。
その空間演出の確かさと素晴らしさ。
演者の上手さと台詞の妙。
大胆で奇抜なキャスティング。
見事な緩と急の物語展開。
そして余韻を残して終わるエンディング等々・・・。

「青い鳥」という女性だけで構成された劇団があります。
80年代を中心に一世を風靡した劇団です。
その「劇団青い鳥」の舞台の一つに「青い実をたべた」という作品があります。
初演は1986年の10月。
これは80歳を迎え現実の年老いた自分の姿を直視できない「佐藤とよ子」が、「80歳の自分」を再確認し、「歳を取るというのも素晴らしい事だ」と気づく、「再生」であり「旅立ち」の物語であります。
これは明らかに高野文子の「田辺のつる」からインスパイアされた芝居であり、また、「田辺つる」の「その後」の物語だと思います。
穿った事を言わせて貰えば、1980年の高野文子の「田辺のつる」は、この1986年の「劇団青い鳥」の「青い実をたべた」によって、「完結したのだ」と私は思うのであります。
(この芝居の『妄想に取り憑かれた老女が現実に立ち戻り、新たなる旅立ちを迎える』というテーマは、『大島弓子』的でもあります。彼女の同様のテーマを扱った『金髪の草原』が1983年で、『青い実食べた』が1986年ですから、明らかに大島弓子の作品にもインスパイアされた芝居だったのではないでしょうか)。

この舞台の影響もあり、私はますます「高野文子の漫画は演劇チックだ」と思うようになったのでありました。
私は高野文子の漫画に、良く出来た台本や台詞を持ち、達者な役者たちによって演じられている「面白い演劇」を観ている様な感覚を覚えるのであります。
(ちなみに、高野文子は劇団青い鳥のポスターやチラシのイラストを何回か描いています)。



「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」は、第二作品集「おともだち」に収録されている高野文子初めての中編作品であります。
ここで扱われる題材は、そのままズバリ「演劇」。
全103ページ中、およそ40ページがその芝居の練習、そして本番の舞台シーンに割かれています。
舞台は大正時代の港町横浜。
とある女学校の五月。
開港記念祭の出し物にメーテルリンクの「青い鳥」を上演する事が決まります。
「少女歌劇団」に憧れていた物語の主人公「太田露子」は、「チルチル」役を希望していたのですが、それはあいにく同じクラスの「吉本笛子」に取られてしまいます。
「笛子」は、クラスの中でも誰とも打ち解け合わず、寡黙ながらもどこか凛々しさを感じさせる不思議な魅力を持つ少女でした。
「露子」が「笛子」に抱く、羨望と嫉妬・・・。
そしてそれはいつしか「笛子」に対する憧れと友情に変わっていくのでありました。
ここでは、大正ロマンのレトロでリリカルな世界が展開していきます。
物語の後半、その公演シーンは圧巻です。
その20ページに渡って繰り広げられる少女たちのその歌劇シーンは、コマ割りの上手さや展開の妙、そして踊る彼女たちのポーズの愛らしさやアングル、構図の素晴らしさなど、どれをとっても非常に完成された一つの作品になっており、その20ページだけ独立させても「面白い漫画」になっていると思います。
演劇特有の「静」と「動」が見事に表現され、「スッ」と身体を動かし、「タン」と足を踏みならしポーズを決める、そんな登場人物たちの動きの描写が、読んでいてとても心地良いのであります。
この動きの「緩急」の素晴らしさは、この作品以降の高野文子作品の大きな特徴となっていきます。
またデビュー以来、いろいろと試行錯誤を続けていた高野文子の絵柄が、この作品によって確定されたのでもあります。
それはちょっとポップでどこか懐かしさを感じさせる「高野文子タッチ」でありました。



「るきさん」は、雑誌「Hanako」に1988年から1992年まで連載された作品です。
1話が2ページからなるショート・ストーリィで、全57話。
自宅での保険の請求書の計算を仕事にしている「るきさん」は、「図書館通い」と「切手集め」が趣味の、ちょっと世俗離れした三十路前の独身女性。
その「るきさん」には、彼女とは対照的で、世の中のトレンドやファッションにうるさい現代的キャリア・ウーマンの「えっちゃん」という学生時代からの友人がいます。
二人は仲の良い「ボケ」と「ツッコミ」の関係なのでした。
この漫画は、その二人の春夏秋冬の日常生活が淡々と語られるという、まるで「るきさんという人物のエッセイ漫画」なのです。
特にドラマチックな事件は何も起こらないのですが、その二人の会話の可笑しさや、「るきさん」の奇抜な発想や生活の描写が、読む者をとても「ほんわか」した温かく優しい気分にさせてくれるのです。
「るきさん」の「力を抜いた」、それでも「るきさん」なりの「こだわりのある生活」を描いたこの作品は、数多くのファンを持ち、私も大好きで1年に1回は必ず読み返してしまうのであります。
私は、この漫画にも「演劇チック」なモノを感じます。
それはすなわち、「るきさん」と「えっちゃん」という役を楽しんで演じている上手い若手女優たちの「二人芝居」を観ている様な感覚なのです。



「奥村さんのお茄子」は凄い作品です。
初出は1994年の月刊漫画雑誌「COMIC アレ!」の5月号(創刊号)。
その時には「40ページ」の作品でしたが、単行本「棒がいっぽん」収録に当たって「全てのページの全てのコマ」を描き直し、「68ページ」の作品となって再発表されました。
連載時の漫画を単行本収録に当たって「加筆修正」する漫画家は他にもたくさんいますが、「その全てを描き直した」という例を私は他に知りません。
「奥村さんのお茄子」の場合、その描き直されたコマの中には「これはほとんど雑誌掲載版と同じ絵じゃないか」と言うようなカットも多く、「何故、このカットも新しく描き直しているのだろう?」と疑問に感じる程なのでありました。
もし、両方の版をお持ちの方は一度、表紙の絵を見比べてみて下さい。
一見、まったく同じに見えるこの絵も、ジッと目を近づけて「線」を観察してみると、これも新たに単行本収録に当たって丁寧に描き直されている事が分かります。
(ちなみに、今年発売されたユリイカ7月号『特集・高野文子』に再録されている『幻の初出バージョン 奥村さんのお茄子』の表紙は何故か単行本バージョンのモノが使われていました。どうしてでしょう?表紙だけ当時の原稿が行方不明になってしまったのでしょうか?)。
これはひとえに高野文子の完璧を求める(自分の理想を求める)「芸術家肌」の作家性ゆえだと推測するのであります。
高野文子は時間さえ許せば、条件さえ許せば、全ての過去の作品を「もう一度、新たに全ページ描き直したい」と思っている「自分に厳しい」作家なのではないでしょうか。
物語は、とある商店街の電気屋店主の元にやって来たスーパーマーケット店員の格好をした女が、「1968年6月6日木曜日、奥村さんはお昼に何をめしあがりましたか」と訊ねるところから始まります。
その謎の女性は自分を「遠久田(とおくだ)」と名乗り、遠くの銀河から地球にやって来た異星人だと告げ、「25年前の6月6日のお昼に奥村さんがお茄子を食べた事」を証明出来ないと「自分の先輩が無実の罪で投獄されてしまう」、と言うのでした。
はたして彼女は本当に異星人なのか、それとも彼女の妄想なのか・・・。
そして、「6月6日の茄子」は証明されるのか・・・。
これは「SF漫画」としても漫画史上に残る傑作なのではと思っています。
何だか、昔の安部公房のSF幻想短編を読んでいる様なカンジもします。
安部公房の「R62号の発明」や「人間そっくり」の様な「奇妙な味のSF短編」の雰囲気があるのです。
この漫画、所々に「電気ポット」やら「アイロン」「ドライヤー」などの家庭電化製品のイラストが大きく描かれ、そこには「5分休憩」などと書かれた短冊が貼られています。
演劇で言うところの「幕間」の休憩シーンなのです。
そして、最後に登場する「電気炊飯器」には「幕」という貼り紙。
そのシュールな設定と相まって、私にはこの漫画も「演劇チック」だと思えるのでした。
80年代90年代あたりの小劇団が好んで演じそうな物語、ではありませんか。



「黄色い本」は今年、7年ぶりに出た高野文子の作品集です。
その中の収録作「黄色い本」は、72ページの大作であります。
初出は1999年の月刊漫画雑誌「アフタヌーン」の10月号。
物語の時代設定は昭和40年代あたりか。
新潟のとある町に住む「本好き」の高校三年生「田家実地子(たいみちこ)」が、1年間、「ロジェ・マルタン・デュ・ガール」の大河小説「チボー家の人々」を読み続け、高校の卒業と共にそれを読み終わる、というお話です。
新潟の四季を通じ、日夜読書に耽る彼女と、彼女の日常生活が描かれていくだけの物語です。
この作品を読んだ事がない人は、このあらすじを聞いて「それって、面白い話なの?」と誰もが思う事でしょう。
が、これが凄く面白いのです。
凄く良いのです。
そして凄く感動するのです。
私はこの作品を読んで「漫画ってのは、『ここまで』来ちゃったんだなあ」と非常に驚いて感激したモノなのであります。
何気ないシーンに込められた人生の機微や、高校三年生という不安と希望に満ちあふれたあの時代を、この漫画は的確にそして繊細に表現しているのです。
また、「夜遅くまで本を読んでいて母親から叱られる」やら「図書館から借りてきた本を汚してしまって慌てる」だの「本好き」なら誰しも経験した事のある描写も多く、学生時代に図書館通いをしていた昔を私は懐かしく思い出したのであります。
そしてこの物語は、いつかは「空想」の世界を卒業し、「現実」の世界を受け入れなくてはならないという、少し哀しく残酷な物語でもあります。
が、それでも物語の最後、実地子の父親が言う「好きな本を 一生持っているのもいいもんだと 俺(おら)は 思うがな」というセリフや、「本はな ためになるぞう 本はな いっぺえ読め」というセリフには、晴れやかで救われた気分になるのでありました。



私は高野文子の描くシンプルな線の絵が大好きです。
少しレトロな感じのする、どこか懐かしいタッチが大好きです。
そしてシンプルな線で構成されたキャラクターであるからこそ、高野文子ほど「模写」するのが難しい漫画家はいないと思います。
ファンとして幸いな事に、彼女の「亜流」が出現しないのも、そおいった理由があるのかも知れません。
また私は高野文子の描く人物の「ポーズ」が大好きです。
動きの中の一瞬を捉えた高野文子の「ポーズ」には、そのキャラクターがどういう生い立ちを持っているのか、どういう性格で今どういう気持ちを抱いているのかすら表現されている、と思うのであります。

「素朴だけども奥深い」、それが私が高野文子の漫画に抱いている印象です。
何度も何度も、繰り返し読んでも決して飽きる事がないのは、そこにあるのだと思います。



高野文子はとても寡作な漫画家です。

高野ファンは彼女の新作を読み終える度に、「はあ。次はいつ新しい作品が読めるのだろうか」と少し寂しい想いに囚われますが、すぐに、次の新作が発表されるまでの長い時間を「今までの作品をじっくりと読み直すために使えるのだ」とも気づくのです。


こうして私は、前の舞台を反芻しつつ、次の開演ベルが鳴るのを、次の幕が開くのを今、待っているところなのであります。




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