「映画」には二つの「演出」が存在します。 それは、「狙いの演出」と「偶然の演出」であります。 興味深いのは、一見、ありのまま撮影された様なシーンが、実は「緻密に計画された映像」であったり、その反対に、演出の狙い通りに撮影された様なシーンが、実は「偶然の産物」だったりする事であります。 今回は、そんなお話です。 ※以下の文章には映画「ウォーターボーイズ」と「華氏451」についてのストーリィが語られています。 未見の方はご注意を。 まずは「矢口史靖」監督の「ウォーターボーイズ(2001)」において。 この映画は、とある男子校の落ちこぼれ水泳部部員たちの「高校生活最後の夏休み」を描いた青春物語です。 明確で達者な演出と、シナリオの面白さと音楽の使い方の上手さ、そして若手俳優たちの個性的な芝居などで、ここ数年の日本映画の中でも良く出来た「佳作映画」だと思います。 ストーリィ展開が多少「漫画チック」ではありますが、それはそれで「おバカな男子校」の気分を上手く表現している様に思います。 舞台は静岡県のとある町にある男子校「唯野高校」。 そこにある廃部寸前の「水泳部」の顧問に、新人の美人教師「佐久間恵」が就任した事から物語が始まります。 それによって、1人しかいなかった水泳部の部員が一挙に30人に膨れ上がってしまいます。 哀しい男子校の「さが」、いや、美人教師の「水着姿」を見たいのは男子高校生ならずとも、世の中の男たちの不変の「願望」なのかも知れません。 しかし、その佐久間先生が「シンクロナイズドスイミングをやりましょう!」と宣言するに至って、膨れ上がった30人の部員たちは再び一気に5人に減ってしまうのでした。 そして問題は、佐久間先生の水着初登場シーンです。 プールサイドに登場した佐久間先生は、白いワンピースの水着を身につけ、上に同色の「パーカー」を羽織っています。 演ずるは「眞鍋かをり」。 このシーンのパーカーには、いくつかの演出意図を感じる事が出来ます。 一つは佐久間先生役の「眞鍋かをり」を、「出来るだけ」高校教師に見せようとする意図です。 男子生徒を演じた役者たちよりも、教師役の「眞鍋かをり」が実際には「年下」であったという事実もあり、この場面で単なる「白い水着姿」での登場だったとしたら、今ひとつ「教師らしく」見えなかった事でしょう(ま、パーカーを着ていても教師には見えないという説もありますが・・・)。 ならば「白い水着」自体を止めてしまって、「上下ジャージ姿に首からホイッスル」という「スポーツ系定番女性教師姿」で良かったのではないか、と言う人もいるかも知れませんが、それでは観ている大方の(男の)観客が納得するハズがありません。 「男のシンクロナイズドスイミング」を描いている本作において、唯一「ナイスバディな女性の水着姿」が登場するシーンはここしかないのですから。 二つ目は、この場面のラストで判明する「実は妊娠8ヶ月であった」佐久間先生のボディ・ラインを隠すという意図です。 ちなみに、この場面の後、佐久間先生は「産休」をとってしまいます。 「眞鍋かをりファン」には不評でしょうが、私はこの「早々と美人教師を物語から退場させる」という展開には感心しました。 この後も映画の中で佐久間先生を引っ張っていたとしたら、物語が非常に散漫なモノになった、と思うからです。 それよりも、問題はそのパーカーの裾の丈なのであります。 これが「微妙に」短いのです。 「股上8センチ」ほどでしょうか。 そのパーカーの裾から「眞鍋かをり」の「お尻」がほんの少しだけはみ出して、チラリと見える仕組みになっているのです。 ここに私は監督の確固たる「狙いの演出」を感じるのであります。 これは、このシーン用のために用意した衣装のパーカーを、たまたま「眞鍋かをり」に着せてみたら「股上8センチだった」、という事では決してありません。 また、もっと裾の長いパーカーを用意する事も、反対にもっと短いパーカーを用意する事も当然出来たハズです。 しかし、監督は細心の注意と強いこだわりを持って「股上8センチ」のパーカーを選び、それを「眞鍋かをり」に着せたのであります。 もちろんそれは、「エロく見せるために」です。 「隠す」事によって「露出する」というテクニックは、昔からいろいろな世界で使われてきました。 難しいのは「何を」「どれだけ」隠すかという事です。 「微妙に短い」、その「微妙さ」がとても「絶妙」で素晴らしい。 あのパーカーが、後2センチ長くても、後2センチ短くても、今ある「エロさ」は失われていたに違いありません。 「股上8センチのパーカー」。 私はその監督のしたたかで緻密な計算(演出)に、大いに感嘆したのであります。 さて。 お次はガラリと変わって。 「フランソワ・トリュフォー」監督の「華氏451(1966)」において。 この映画の原作は「レイ・ブラッドベリ」の「華氏451度」で、近未来、「本を読む事」を禁じられた管理社会を描いた傑作SF映画です。 主人公「モンターグ」の仕事は「fireman」。 昔は「消防士」と呼ばれていた彼の職業も、その未来の社会では「禁書官」と呼ばれていました。 思想弾圧のため「本を所持し、本を読む事を禁じた社会」では、彼の仕事は「火を消す事」ではなく、違法に本を隠し持っている人々を処罰し、彼らの蔵書を「燃やす事」にありました。 彼が現場で抱えるホースから出てくるのは「水」ではなく、本を燃やす為の「炎」だったのです。 タイトルの「華氏451度」とは、紙が燃え出す温度。 そんな彼がある時、一人の女性と知り合う事によって、「本を読む事」の素晴らしさを知り、自分の仕事に疑問を持ち、そして管理社会に反発を覚える様になっていきます。 政府とかつての同僚から追われる身になったモンターグが、最後にたどり着いた所は、「本を愛する者たち」がひっそりと隠れ住む「本の森」でした。 そこでは各人が一冊の本を完璧に暗記し、次の若い世代に「本」の内容を「口伝え」で残していく、自ら一冊の「生きた本」となる人生を選んだ、「隠遁者」のコミュニティでした。 彼らは「本の人々」と呼ばれていました。 映画のラストシーン、夜半から降り始めた新雪を踏みしめ、早朝の森の中を何人かの男女が歩いています。 一人の男は「スタンダール」を、一人の女は「ブロンテの嵐が丘」を、また別の老人は「スチーブンスン」を、若い男は「ブラットベリの火星年代記」を、それぞれ暗唱しながら雪の森を歩いて行く・・・、そんな静かなシーンでこの映画は終わるのでした。 しかし、この最後の雪のシーン、実はトリュフォーが望んで撮影したモノではなかったのです。 低予算で製作されたSF映画「華氏451」には(当時この映画は予算の問題で二年間ほど製作がストップしていたほどです)、スケジュール的な余裕がまったくありませんでした。 通常の映画の場合、ロケ撮影には「天気予備日」なるモノが設けられているのですが、この映画にはそれがなかったのです。 最後の「本の森」のロケ撮影当日、突然降り始めた雪空を見上げ、トリュフォーは暗澹たる気持ちになった、と言います。 彼が望んでいたのは「美しい木漏れ日溢れる森」のシーンだったのです。 しかし、この「偶然の演出」が、映画のラストに「抒情性」を持たせ、SF映画史に残る静謐で美しい名場面になったのであります。 また、映画の全編通じて登場する全ての物を焼き尽くす「動的」で「凶暴」な「炎」に対し、ラストの「雪」には「静的」で「優しい」イメージを感じ取る事も出来、その対比がこの映画に、より一層の「深み」をもたらす結果にもなったのでありました。 日本のSF映画でも、この「偶然の演出」によって名ラスト・シーンになった映画がありました。 「空の大怪獣 ラドン(1956)」です。 物語の最後で、ラドンは噴火し始めた阿蘇山の火口へと墜落して絶命します。 この時のラドンの芝居が「突然ガクリと力つきて火口へと落下する」という哀愁に満ちたモノでしたが、それはラドンを吊っていたワイヤーの一つが撮影中の現場で切れてしまった偶然によって成された「名演技」だったのです。 これらは、「偶然の産物」が結果的に「素晴らしい演出になった」例ですが、その「偶然の産物」を自分の「物語」の中に組み込み、「演出」として「昇華」させる事が出来たのは、当然、監督に「才能」があったためでもあります。 多くの映画の中には「狙い」と「偶然」の演出が、必ずどちらも存在しているモノです。 そして、これら二つの割合は、映画の種類によっても異なります。 例えば、CG映画やアニメーション映画には「偶然の演出」の割合が極端に低く、ほとんどのカットは「監督が意図した絵」「狙いの演出」で構成されています。 キャラクターのどんなに小さな芝居、例えば眼の瞬きの回数や風になびく髪の毛の動きに至るまで、それは偶然に撮影されたモノではなく、監督によって意図されコントロールされた映像なのです。 これが実写映画になると、「偶然の演出」の割合が高くなります。 実写映画で一番「偶然の演出」を多用するのが、「ドキュメンタリー映画」というジャンルです。 しかし、ドキュメンタリー映画でなくとも、アニメーション映画に比べて実写映画には必然的に「偶然の演出」の要素が多くなるのです。 それは、「生身」の役者たちを使って、現実の「場所」「天候」で撮影するという「不確定要素」が多いためです。 多くの映画監督は「偶然の演出」を嫌っていますが、中にはそれを多用する監督もいます。 例えば、役者の一挙一動まで細かく注文を付け、自分の思い通りの動きになるまで何回も何回もリハーサルを続ける「スタンリー・キューブリック」や「黒澤明」みたいな監督がいます。 彼らはセットの細かい部分まで、時には自然の天候すらコントロールしようとします。 彼らの映画に「偶然の演出」が入り込む余地はかなり少ないと言えるでしょう。 その反対に、現場では役者に一切芝居をつけない、という監督もいます。役者の自由な発想に任せようと言うのです。 セット撮影よりもオール・ロケ撮影にこだわる監督もいます。 それはリアルさを重視するという理由はもちろん、ロケ撮影に付き物の「偶然の演出」、例えば日の光や風のきらめき、空気の匂いまで自分の作品内に取り込もうとしているためです。 ゲリラ撮影が好きだという監督もいます。 実際の街中で突然撮影を開始して、その周りの人々のリアクションをフィルムに収めるのを至上の喜びにしている監督たちです。 当然、「偶然の演出」を多用する監督たちにも「狙いの演出」はあるのですが、その「許容範囲が広い」という事なのかも知れません。 前者の監督たちには濃厚な「完成した作品のイメージ」が頭の中にあり、それをいかに「実現するか」が問題であり、後者の監督たちは「どうやってスタッフ・キャスト全員の力を引き出して、自分の想像以上の作品を作るか」に苦心しているのであります。 役者たちに好かれるのは後者の監督ですが、その映画が面白いモノになるという確証もありません。 蛇足ながら、「アルフレッド・ヒッチコッチ」も役者に細かく注文を付ける監督で有名でした。 役者たちに自由な芝居は一切させず、完璧に自分の思い通りに動かさなければ気が済まなかったそうです。 ある時、インタビューアーの、 「ヒッチコック監督。あなたは日頃、『役者はしょせん家畜みたいだ』と言っているそうですね?」という質問に応え、 「家畜みたいだ?私はそんな事を言った覚えはないよ。『役者は家畜だ』と言ったんだ」 という話は有名なのであります。 が、ま、しかし、「キューブリック」や「黒澤明」、「ヒッチコック」みたいな「ワンマン大天才監督」は別にして、多くの映画監督たちの現実は、「狙いの演出」をしつつも、いかに現実に即した「偶然の演出」を自分の作品の中に上手く取り入れるか、という事が大切なのかも知れません。 またまた蛇足ながら。 私が近年面白いと思っているのは、映像の全てを「狙い通り」に、隅々までコントロールして作られているCGアニメーション映画、「トイ・ストーリィ」や「バグズ・ライフ」「モンスターズ・インク」などが、その作品の最後に「NGシーン集」を付け加えている事です。 もちろん、お遊びの「サービス・カット」であり、「狙いの演出」によって作られた「似非NGカット」ではありますが、人間、全てが思惑通りに進められたら、られたで、どこかに「予定外」の部分が欲しくなるのかも知れないなあ、などと思うのであります。 以上、映画演出における「狙いと偶然」について、簡単ではありますが、考察してみたのでありました。 |
ご意見、ご感想はこちらまで |