SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.62
「過剰と欠如と転倒」
について

(2004年11月3日)


18世紀のフランスの博物学者ビュフォンによれば「怪物の定義」とは、
1)過剰によるモノ。
2)欠如によるモノ。
3)部分の転倒、もしくは誤った配置によるモノ。
なのだそうです。

例えば日本の妖怪。
眼が身体中にいっぱい付いてれば、それは「百目」という妖怪になりますし(過剰によるモノ)、反対に一つしかないと「一つ目小僧」というお化けになるワケです(欠如によるモノ)。
また、顔でなく掌に目玉が付いていれば(誤った配置によるモノ)、これは「手の目」という妖怪になるのであります。

また西洋のモンスターにおいて。
ハリーハウゼンの立体アニメーションで有名な「カーリー神」は6本腕の魅力的なクリーチャーですし、一つ目小僧同様、単眼の巨人は「サイクロプス」となり、人の身体に牛の頭を持つ半獣半人の怪物は「ミノタウルス」と呼ばれるのであります。

「過剰」と「欠如」と「転倒」。
もちろん、これらの三つの怪物の条件は、それぞれ単独で用いられるよりも、複数で、順列組み合わせで成り立っている事も多いのです。
例えば、獅子と牡山羊とドラゴンの三つの頭を持ち、さらに蛇の尾をした「キマイラ(キメラ)」などは、「過剰によるモノ」と「誤った配置によるモノ」によるモンスターと言えるでしょう。


で、です。

私はこの三つの「怪物の定義」が昔から大好きで(大好きってのも変ですが)、事あるごとに思い浮かべるのであります。
それは、この定義が「面白い創作物を作る条件」にも、そのまま当てはまると思っているからなのです。

全ての創作物は、もちろんエンターテイメントを志向する作品に限ってですが、小説や漫画、映画や演劇、アニメーションやゲームなど、とことん過剰であったり、また反対にとんでもなく欠如していたり、はたまたアンバランスであったりする事が、とても大切だと思うのです。

それが面白いクリエイティブの秘訣なのではないでしょうか。
中途半端な中庸が、娯楽作品としては一番つまらないのです。


例えば映画。

以前にも書きましたが、「ダリオ・アルジェント」は私の大好きなイタリアのホラー映画監督です(ちなみに初期の)。
彼の映画は「ケレン味」で溢れています。
突如インサートされる思わせぶりなクローズ・アップや(実はあまり意味がない)、いきなり始まる整合性のない原色のライティングや(あまり意味がない)、作劇上無意味で特異なカメラアングルなど(意味がない!)、「アルジェント・タッチ」が作品のいたる所に散在しています。
「意味がない」のですから(そもそもそれがケレン味ですが)、彼の場合「凝った演出」と言うよりも「過剰な演出」と呼ぶべきモノなのです。
彼の作品は演出過多なのです。
そして、それが面白いのであります。
よく周りの人間が「それは意味がないから止めといたら?」と忠告しなかったモノだと思うほど(ま、したんだけど聞かなかったのでしょうが)、彼の映画は過剰な演出で構成されているのであります。

また、「スタンリー・キューブリック」。
彼は省略の上手い作家だと言われる事があります。
もはや伝説的に語られる「2001年 宇宙の旅」での、猿人の投げた骨を単純なカットで宇宙船へ繋いだシーンや、淡々と繰り広げられる宇宙飛行士とHAL9000の攻防、最後のスターゲートからスターチャイルドの誕生に至るまでの展開、公開直前に全てのナレーションを削除したその姿勢など、本来ならもっともっと語るべきところを(語りたくなるところを)彼は一切排除したのであります。
これが実に素晴らしい。
「描かない事により描く」「説明しない事により説明する」というのは映画監督の常套技巧の一つですが、これも明らかに上手い監督と下手な監督がいて、下手な監督に掛かると「おいおい!そこをちゃんと見せろい!」とか「お金が無かったんだねぇ」とか「そもそも映画化は無理だったんだ」などと観客の反感を買う事になってしまうのであります。
キューブリックの「描かない事により描く」その的確で見事な手腕には、私はいつも感嘆してしまうのであります。

「テリー・ギリアム」も私の大好きな映画監督です(ちなみにこれも初期の)。
微妙に配置のズレた「歪で奇妙な物語」を紡ぐ映像作家です。
「クリムゾンは荒野をめざす」(モンティパイソン人生狂騒曲のオープニング)は、リストラ間近の老人達の会計事務所が、いきなり反旗を翻し、文字通り改修工事中の古ぼけたビルディングの天幕が風を孕んで帆船と化し、ウォール街の青年エリート達をばったばったと薙ぎ倒す痛快でシュールな短編映画でした。
「バンデットQ」では、数々の冒険の末に魔王を倒し、ようやく現実世界に戻って来た少年を待っていたのは映画最大の悲劇でした。
「未来世紀ブラジル」では(この映画は私の好きな映画ベスト5の中に入ります)、管理する側の人間がいつしか管理され、闇のダクト修理人はテロリストとなり、助けるべきのヒロインに助けられ、現実は夢を凌駕し、最後にサンタクロースが主人公の死刑執行をにこやかに告げるのであります。


「過剰」と「欠如」と「転倒」。

また、私の好きな漫画においても。

「大友克洋」はデビューの頃から注目していましたが、それでも初期のアンニュイでATGチックな短編を描き続けていたのなら、ここまで大好きな漫画家にはならなかったと思います。
それが決定的になったのは彼の「童夢」でありました。
東京郊外のマンモス団地で繰り広げられる少女と老人の超能力戦は、物語こそシンプルでオーソドックスですが、その圧倒的な絵の迫力に完璧に参ってしまったのでした。
何より驚いたのは、その「団地」の凄まじい描写です。
巨大なマンモス団地の窓枠一枚一枚、室外機の一台一台を細かく描き、それが何室も何室も何階も何階も正確なパースペクティブで続き、そうして出来上がった団地が何棟も描いてあったのです。
今では珍しくはないのかも知れませんが、当時、あそこまで描き込んだ漫画はありませんでした。
何故なら、「あそこまで描き込む必要がなかった」からです。
「何もここまで・・・」と呆れるほど、必要以上に緻密なディテールとボリューム感で、その団地の描写が何ページも何ページも息苦しいほどに続いたのでありました。

そして「高野文子」です。
彼女の漫画に関しては以前にも書きましたので、ここではあまり言及しませんが、そのシンプルな描線の巧みさにはいつも感心してしまいます。
無駄な線は何一つ無く、的確かつ力強い線で、登場人物も背景も見事に簡略化され描かれているのです。
当然、何かを省いたり何かを欠落させるという過程で、一番重要なのは、その「何を」という部分であります。
単に簡単な線でチャッチャと描けば良いのではなく、「何を描き」「何を描かないのか」という判断と選択、そして実現力(実際に絵を描く能力)に、高野文子はとても優れていると思うのです。
観るたびに「本当に上手いなあ」と惚れ惚れしてしまう絵なのであります。

「いがらしみきお」も、私の好きな漫画家です。
初期の「ネ暗トピア」や「あんたが悪いっ」「さばおり劇場」の頃から、他の4コマ漫画家とは一風違う世界観が気になっていましたが、そんな彼が本当の真価を発揮するのは「ぼのぼの」「3歳児くん」「のぼるくんたち」などで「物語」を語るようになってからだと思います。
へろへろとした、いかにも「画圧」の低そうな線で描かれた淡泊なキャラクター達が、何でもない日常生活の中で茫然と語り始めたのは、人生の深淵部分であったのです。
「考えないということを考え」たり、「困っていないことを困った」り、その絵柄とテーマは実にミスマッチでアンバランスでした。
その「転倒」加減が、実に面白かったのであります。
「ほのぼのした登場人物達が結果的に哲学しちゃう」というのは、アメリカの新聞漫画辺りにルーツがある様な気がしますが、彼の描く漫画はより一層重く、そして深いのでした。
4コマ漫画出身者には、この「転倒」タイプが多い様な気がします。
それもそのはず、「起承転結」を王道フォーマットとする4コマ漫画では、最後の4コマ目で「転倒させる=バランスを崩す」のは彼らの定番技巧だからです。
ちなみに、「いがらしみきお」について書く際、最近ネットでようやく最終話が公開された「Sink」に触れないワケには本来行かないのですが(これは近年のホラー漫画の最高傑作だと思います!)、長くなりますので、この話はいずれまた、なのであります。



そしてまた。

人の興味を引く面白い立体造形物にも、これらの「怪物の定義」が当てはまると私は考えるのであります。
もちろんプロ・アマ問わずに、です。

模型・造形好きならば誰でも「よくも、まあ、ここまで作ったなあ」とか「こんなの作っている人がいるんだー」とか、思わず感心したり感激したりする作品に巡り会う事があります。
丁寧に細かく作り込まれた作品や、人知れぬ拘りと熱情が込められた作品、独自の発想と機転から生まれた作品、時間と確実な技術力で作られた作品には、観る者を「おお!」と唸らせる力があります。

「よくも、まあ、ここまで作ったなあ」に代表されるのが「過剰」タイプの作品です。もちろん「丁寧に作り込んだ」作品だけを指すのではなく、このタイプには「わははは!こんなの作っちゃったんだー」という「過剰な思い入れ」による作品も入ります。
「必要以上」に「過剰」に、技術や思いが込められた作品には必ず他人に訴える力があるのです。

また、「欠如」タイプの作品もあります。
以前、ネットで拝見した「レゴで作られた宮崎アニメのジオラマ」がありました。
それは単にレゴの黄色いプレートの上に、単にレゴの青い人形が立っているだけのモノでしたが、その作品タイトルは「黄金の野に下り立つべし」と付けられていました。
私はこれにとても驚愕し、感激し、狂喜したのであります。
この作品にあるのは、全てのディテールの完璧な欠如です。
例えば、この名場面をどんなにディテール細かく丁寧にアニメのシーンそっくりに立体再現したとしても、この作品に勝る事は決して出来ないと思うのです。

「転倒」タイプの作品もあります。
発想の妙によって作られた作品です。
例えば「超リアル版ドラえもん」とか「超リアル版アトム」なども、その一つでありましょう。
本来そのキャラクターがいるべき次元とは、まったく異なった次元の介入により出来上がった作品達です。
私はこれを以前「翻訳作業」と呼びましたが、小説や漫画、アニメーションなどに登場する「既成のデザイン物を作る場合」、その作る各作家の「翻訳作業」が大切だと思うのです。
すでにある設定を、設定通りにそのまま作っても面白くないのではないでしょうか?
そして各作家により「翻訳」の仕方はいろいろとあり、それがとても面白いと私は思うのであります。


ネットの普及により、今まで見る事がなかなか出来なかったプロ・アマ問わず様々な作品を拝見するチャンスが増え、とても楽しい今日この頃の私なのであります。



「過剰」と「欠如」と「転倒」。
ビュフォンの怪物の定義。

多すぎるか、少なすぎるか、組み合わせが変か。
そのいずれも、私の好きな「上々颱風」が唄っている通り、「やり過ぎぐらいが丁度良い」のであります。
多分。



以上、勝手身勝手、極私論的な「怪物=クリエイティブ論」なのでありました。





目次へ                               次のエッセイへ


トップページへ

メールはこちら ご意見、ご感想はこちらまで