SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.66
「昔の石森章太郎が好き その(1)」
について

(2005年7月29日)


私は昔から「昔の石森章太郎が好き」でした。


数十年前の学生の時から「昔の石森章太郎は良かったなあ」と言っていましたので、私の言う「昔の石森章太郎」とは本当に昔の、「初期の石森漫画」の事なのであります。
当然まだ「石ノ森章太郎」ではない時代の話です。


「漫画に『映画』を持ち込んだのが手塚治虫で、漫画に『文学』を持ち込んだのが石森章太郎だ」とは、誰が言ったセリフか忘れてしまいましたが、昔からの漫画好きなら納得する方も多い事でしょう。

今でこそ成熟した表現形式である「漫画」も、1950・60年代はまだまだ発展途上にあり、様々な先人たちの「試行錯誤」や「大発明」によって進化・発展してきたのです。
その大きな役割を担ったのが「手塚治虫」と「石森章太郎」でありました。

もちろん「漫画」は「映画」とも「文学」とも異なった特性を持つ表現方法です。
「どれが優れている」「劣っている」と比べるモノではありません。
一時期の(これも昔の話ですが)「漫画は文学を越えた」などという論調も実にナンセンスなものでした。
ですから先の「漫画に『映画』を持ち込んだウンヌン」における「映画」や「文学」も、厳密に言えば「映画性」や「文学性」の事なのであります。

また、この場合の「映画性」とは、長玉(望遠)か短玉(広角)かといったレンズの選択から始まり、照明、アングルやレイアウトなどの「絵作り・カメラワーク」の要素と、どんな絵の連続で物語が構成されているかという「モンタージュ・編集ワーク」を指しています。
また、この場合の「文学性」とは、登場人物たちの内面世界への洞察や描写、自然現象や風景が持つ抒情性の切り取り、それらを全部まとめ上げる「詩情」を指しています。

「手塚治虫」以前の漫画には「カメラワーク」も「モンタージュ」も存在せず、「石森章太郎」以前の漫画には「抒情」や「詩情」も完成されていなかったのです。
「手塚」以前の漫画は文字通り「紙芝居」、つまり「舞台劇」であり、「石森」以前の漫画は「お話」であり「映像詩」ではなかったのです。

「石森章太郎」は漫画で「詩情」を語ろうとした作家です。
その頂点の一つは、虫プロの漫画誌「COM」に連載されていた「ジュン(1967)」でしたが、それは彼のデビュー当時から志向され追求され続けていたモノでした。


「手塚治虫だって昔から抒情性のある漫画を描いてたじゃないか」と言う手塚ファンの反論もあるでしょう。

例えば、「手塚治虫」の「太平洋Xポイント(1953)」。

「空気爆弾」。
その地球の存亡に関わる「新兵器」を巡って繰り広げられる、誰も知らない小さな南の島の、小さな戦いの話。
それは勝者も敗者も残さない、愚かしい人間同士の戦争でした。
物語は「笑いカワセミ」の嘲笑が島中に響き渡ったところで幕を閉じていきます。
このラストには「抒情性」があります。
「手塚漫画」は昔から「ラストカット」に抒情性や無常観を持たせるのが得意でした。
「余韻を残して終わる」という作劇上の常套手段です。

しかし、これは「物語のための抒情」であり「世界観としての抒情」ではありません。
「抒情的に終わる」のであって「抒情的な世界」を描いたワケではないのです。

蛇足ながら。
この「太平洋Xポイント」はその昔、手塚治虫と反目し合っていた宮崎駿が「手塚漫画の中で(私が)アニメ化するんだったら」と言わしめた初期の傑作短編であります。



話を「石森章太郎」に戻します。

彼がデビューしたのは、まだ高校生の「1954年」の事でした。
作品は「漫画少年」に描いた「二級天使」です。
その後、高校を卒業し上京、本格的なプロの漫画家として歩み始めます。
以降、少女漫画誌や少年漫画誌、特に「1959年」から「少年サンデー」「少年マガジン」という「週刊漫画誌時代」が始まり、若くして石森章太郎は「売れっ子漫画家」になっていくのでした。

もちろん時代の要請もあったのでしょうが、彼には最初から「ずば抜けた漫画家としての天性」があったのです。

それでは、私の好きな「昔の石森漫画」を2つ、ご紹介いたします。
実はこれが本エッセイの目的で、今までは単に「長い前振り」だったのであります。
えへ。




「そして・・・誰もいなくなった」
これは「昭和42年(1967)」の「少年マガジン」に、前編・後編に分けて発表されました。
いつも自作に新機軸・奇抜なアイディアを取り入れていた「初期の石森漫画」の「真骨頂」とも云うべき作品です。
もちろん、タイトルはアガサ・クリスティのミステリー「そして誰もいなくなった(1939)」を捩ったモノです。


本作は「五つの漫画」で作られています。
「五つの別々の物語」が交互に語られ、同時進行していく仕組みになっているのです。

一つ目は「シアワセくん」という「ほのぼの四コマ漫画」。
二つ目は「指令Z」という「近未来SF物語」。
三つ目は「しばり首の木」という「巨大トナカイと少年の復讐譚」。
四つ目は「ゴリラがいく」という「学園ドラマ」。
そして五つ目が「脱出」という「東西ドイツのスパイ物語」。

この「四コマ漫画」「SF漫画」「動物漫画」「学園漫画」「スパイ漫画」という異なるジャンルの物語を、ひとつの作品の中で同時進行して描くというアイディアは、「石森章太郎」だからこそ実現できた仕掛けだと思います。
デビュー当時からひとつのジャンルに拘らず、実に多彩な漫画を描いていた「石森」の実力があっての事です。
そこには、「俺はいろいろな作品をみな面白く描ける」という「若き漫画の天才」の自信もあったのでしょう。

また、映画好きな「石森」には、「スタンリー・キューブリック」の「現金に体を張れ(1956)」の「複数のドラマが同時進行する」あのイメージがあったのかも知れません。
同じキューブリックの「博士の異常な愛情(1964)」の影響も感じられます。
いや、影響どころか「博士の異常な愛情」が、本作「そして・・・誰もいなくなった」を描く一番の動機であったと思います。

何故なら・・・。

毎回淡々と続く「シアワセくん」の日常が、
父の仇である巨大トナカイを倒した青年の虚しさが、
学園の不正を暴いた少女の正義感が、
哀しいスパイの脱出劇が、
それぞれのエンディングを迎える直前、単なる「物語の中のひとつ」であったハズのSF漫画「指令Z」が突然躍り出てきます。
水爆を積んだアメリカの爆撃機が、計器の故障により「安全地点」で引き返す事なく、本来の目的を遂行してしまうのです。
こうして人類は突然の終局を迎えるのでした。

ラストページ前の「見開きページ」は実に圧巻です。
全てのコマが「千切れて細々に吹き飛んで」いるのです。

描かれるべき「五つの物語の五つのエンディング」はもちろんの事、「石森漫画」の「サイボーグ009」や「ボンボン」、「ゴン太」も「となりのたまげ太くん」も、「石森の自画像」も「トキワ荘の友人たち」も「ミュータント・モグラ」も、みな暴力的に切り裂かれ「見開き」いっぱいに四散しているのです。

もちろん、「そして・・・誰もいなくなった」というタイトルや「五つの物語」のひとつに「水爆を積んだ爆撃機の話」がある事から、この展開は最初から容易に推測できた事でした。
でも。
この「見開きページ」は先の展開が読めていたとしても、実に衝撃的なビジュアルだったのです。

「そして・・・誰もいなくなった」は、「漫画って漫画にしか出来ない面白い表現方法があるんだなあ」と私に気づかせてくれた幾つかの作品の一つとなりました。




「ミュータント・サブ」
「昭和36年(1961)」の「中学生画報」に原型である「ミュータントX」が、同年の「少女」に「ミュータント・サブ」が数話掲載され、「昭和40年(1965)」には「少年サンデー」へと場所を移して本格的な連載が始まりました。
この連載は翌年の「昭和41年(1966)」まで続きます。
以降も「少年マガジン」「ぼくら」「冒険王」と雑誌を換えつつ、シリーズは続いていきました。
今では考えられませんが、当時の「多作漫画家」は「掲載誌が変わっても連載を続ける」事が多かったのです。
もっとも、そんな器用な事をやっていたのは「手塚治虫」と「石森章太郎」ぐらいでしたが。


私が持っている「ミュータント・サブ」は、大昔「虫プロ」から出ていた「石森章太郎選集」版です。
全三巻の収録作品は以下の通り。

【第一巻】
「ミュータント・サブ 誕生編」※ 少年サンデー増刊(1965)
「設計図X編」※ 少年サンデー(1965)
「秘密諜報員0号編」※ 少年サンデー増刊(1965)
「けものの町編」 少年サンデー(1965)
「ロボット城編」 別冊少年サンデー(1965)
「暗殺脳波編」 増刊少年サンデー(1965)
「幽霊編」 少年サンデー(1966)
「雪と火の祭り編」※ 別冊少年サンデー(1966)

【第二巻】
「闇の叫び編」※
「超人部落編」
「魔女の条件編」
「白い少年編」 少年サンデー(1965)
「11人のサンタクロース編」※
「雪魔人編」※

【第三巻】
「スイッチピッチャー サブ」
「原始少年 サブ」※
「スパイハンター サブ」
「エッちゃんとサブ」
「X指令」 別冊冒険王お正月増刊号(1966)
「原始少年サラン」※ 小学六年生(1966)

(初出記述がないのは、1966年に『ぼくら』に連載されたモノと、1967年に『別冊少年マガジン』に連載されたモノだと思いますが、詳細は不明なのであります)


ある日、交通事故により輸血した青年「サブ」は超能力を持つ様になってしまいます。
こうして、その能力ゆえに彼は様々な怪事件に巻き込まれる事になるのでした。

この「ミュータント・サブ」には、多くの「石森漫画」に共通した「テーマ」が描かれています。
それは「超常者の孤独」であります。

「サブ」は自分の優れた能力を誇るどころか、他者とは違う自分に「孤独」を感じていくのです。
これは作家「石森章太郎」自身が感じていた「孤独」でもあったのではないでしょうか。

若い頃から「漫画の天才」だった「石森」の才能は、あの「手塚治虫」が嫉妬していたほどでした。
また、彼の漫画に自虐的に描かれる「自画像」を見ると、「背が低い」事や「自分の容姿」にコンプレックスを持っていた事も推測できます。
デビュー当時の「あだ名」は「じゃがいも」であったと本人のエッセイにも書かれています。

「異形の者には超常の能力が与えられる」のです。
でも、それは、
「その超常の能力ゆえに彼は疎外される」事になるのです。

これは「ミュータント・サブ」シリーズ全体に流れるテーマですが、上記のリストの中でも、「けものの町」「闇の叫び」「魔女の条件」「白い少年」「原始少年サブ」が、直接的に物語のプロットとなっていました。


「異形の者には超常の能力を与えられる」
「その超常の能力ゆえに疎外される」
昔からのSF好きには、
「これって『ヴァン・ヴォークト』の『スラン(1940/46)』じゃん!」
と思われる事でしょう。
また、「オラフ・ステープルドン」の「オッド・ジョン(1935)」や、「シオドア・スタージョン」の「人間以上(1953)」を思い浮かべる方もいるでしょう。
その通りなのであります。

超能力を持つ主人公の「孤独と悲哀」の物語は、確かに「スラン」やそれに類する当時の「SF小説の設定」に似ています。
漫画「ミュータント・サブ」もそれに影響された事は明かです。

初期の「石森漫画」には、「これってあのSF小説が元になっているだろう」と推測できる作品が数多くあります。
ですから、彼の初期作品を「欧米SF小説の良くできた翻訳漫画」などと心無い事を言う人もいますが(実は私ですが)、「全ての創造は模倣から始まる」のでもあります。

勉強家であった「石森」は、絵画や音楽、小説や映画など様々なジャンルの創作物を貪欲に吸収し、それを自分の中で「再構築」して「自分のオリジナル」をそこに「加味」していく「作家」でした。
重要なのは「多くの優れた既存の創作物を自分の中に取り込み再構築」する事であります。
お手軽に「他人の創作物を自分の作品に反映する」のは、これ単なる「パクり」であります。
「いかに多くの引き出しを持っているか」という日々の蓄積と、それに反する「他人とは違うモノを創りたい」という欲求が、「作家」には必要であると思うのです。


「ミュータント・サブ(1965)」は「少年キング」で始まった「サイボーグ009(1964)」の「二卵性双生児」でもあります。
いや、「サブ」の始まりを「ミュータントX(1961)」からだとすれば、「サイボーグ009」の「原型のひとつ」に当たるのかも知れません。
(ちなみに、『サイボーグ009』のもうひとつの原型は『少年同盟』ですが、その話はいずれまた、なのであります)。

それはテーマやストーリィは言うに及ばず、「衣装デザイン」にまで影響を与えています。

例えば、これ。
相変わらずあまり似ていない私の模写ですが、

これは「設計図X編」や「秘密諜報員0号」で、主人公「サブ」が「ジェームス・ボンド」ばりの諜報部員として活躍をする際に着ている「トレンチコート」であります。

当時の「スパイ物」や「探偵物」のお約束としての「トレンチコート」であったのですが、これすなわち、

サイボーグ戦士の「コスチューム」の元ネタなのであります。
多分。
「トレンチコート」の大きなボタンがサイボーグ戦士の胸のカプセルとなり(設定ではこれは酸素ボンベ)、「トレンチコート」の広がった襟やスカーフが棚引く「マフラー」となり、腰のベルトで上下分かれたデザインがそのまま戦士の服にも踏襲されたのであります。


さらに「ミュータント・サブ」には「石森章太郎の世界」を代表するビジュアル要素があります。
それは「雪」です。

私は常々「石森漫画には雪が降っているシーンが多い」と思っているのですが、「ミュータント・サブ」でも多くのエピソードで「雪が降って」いるのです。
上記リストの中でも半数の8作品に「雪が降る」「雪が積もっている」シーンが描かれているのです(※印が付いた作品がそうです)。

何故、雪が降っているシーンが多いかと言うと、それは「詩情性」を出すためです。
さらに突き詰めると「いろいろとあったけども、結局、自然が人間の愚かな行為など全て覆い尽くしてしまうのだ・・・」という「無常観」を表現しているのだろうと思います。

もちろん、「雪」に拘るのは彼の出身が「宮城県石森」という雪の降る土地であった事にもよるでしょう。
そして彼の作品の持つ「詩情性」は、この「東北出身」とは無関係ではありません。
もしも。
「手塚治虫」が「関西出身」じゃなく「東北出身」だったら。
「石森章太郎」が「東北出身」じゃなく「関西出身」だったら。
彼らの残した作品は、今我々が知っている作品とはずいぶん違うモノになっていた事でしょう。



「文学性のある」「抒情性のある」「詩情性のある」石森漫画が、50年代後半から60年代に子供時代を過ごし、70年代に活躍を始めた一部の少女漫画家たち、例えば「萩尾望都」や「竹宮恵子」らに影響を与えたのは、これ歴史的必然でありました。
彼女らは「石森章太郎」が描く「詩情性のあるSF漫画」に強く惹かれたのです。
「石森章太郎」がプロの漫画家になり、その初めての連載が少女漫画誌「少女クラブ」の「幽霊少女(1956)」というSF漫画であった事は、日本の漫画史を考える際にとても重要な意味を持っていると私は思います。


今の漫画界を見渡してみると、「石森漫画」の「中期・後期の後継者」は結構いる様な気がします。
「仮面ライダー」や「HOTEL」などの後継者です。
でも、私の好きな「初期の石森章太郎」の後継者はいないなぁ・・・

と思っていたのですが、実は一部の少女漫画家たちに、その「血」は受け継がれているのであります。
多分。




さて。
今回も何だか長いエッセイになってしまいました。
本当は「そして・・・誰もいなくなった」と「ミュータント・サブ」の紹介だけしようと思っていたのですが。



次回の「昔の石森章太郎が好き その(2)」では、私の一番大好きな石森作品「おかしなおかしなおかしなあの子」について書こうと思っています。

あの「猿飛エッちゃん」の話なのであります。






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