今回は私の大好きな「昔の石森漫画」の中から、 「龍神沼」と「幻魔大戦」について書くのであります。 「石森章太郎」がデビューしたのが「昭和29年(1954)」。 その「7年後」、「石森漫画」の代表作の一つ、いや日本の漫画史に残る名作が生まれました。 「龍神沼」です。 「龍神沼」は「昭和36年(1961)」の「少女クラブ」の「夏休み増刊号」に掲載された作品です。 この「少女クラブ」をオンタイムで読んでいない人も、その後の単行本で読んだ事がない人も、そもそも「石森章太郎」に興味がない人でも、漫画好きなら「龍神沼」だけは「読んだ事がある」のではないでしょうか? 何故ならこの「龍神沼」は、「石森章太郎」の「マンガ家入門(秋田書店・1965)」に全ページ「テキスト」として引用されているからです。 石森の「マンガ家入門」は、漫画家になりたかった多くの少年少女たちの必読書・愛読書であり、そして当時の少年少女たちは皆「漫画家になりたかった」のであります。 多分。 さらに、「マンガ家入門(1965)」と「続マンガ家入門(1966)」は、「1988年」に一冊に合わさって「石ノ森章太郎のマンガ家入門」となり、その後も改訂を続ける長いベストセラーとなっています。 つまり、「龍神沼」は幅広い層に読み続かれている「石森漫画」だと思います。 「漫画の描き方」のテキストになっているだけあって、この作品はとても丁寧描かれ、緻密に計算されて創られた素晴らしい漫画です。 デビューから亡くなるまでの全「石森漫画」の中で、最も完成された「作画と構成と演出」を持っていると私は思います。 もちろん「一番完成された作品」が「一番面白い作品」かどうかは、これまた別のお話ですが、私の大好きな作品である事は間違いないのです。 物語は、こうです。 これは一人の青年「研一」が経験した、一夏の不思議な物語。 鬱蒼と茂った小高い森を抜けると、麓に小さな村が見えてくる。 彼は都会から田舎の親戚「次郎べえ」の所に夏休みを利用してやって来たのだ。 来訪を知り一番喜んだのは「次郎べえ」の一人娘「ユミ」。 彼女は「研一」に淡い恋心を抱いている。 村は明日から始まる「龍神祭り」の準備の真っ最中で、「研一」は去年見逃したこの祭りを楽しみにしていた。 「茂りし林の奥深く 黒く声なく沼は眠れり」(ピエエル・ゴオチェ) (作中では『茂りし村の奥深く 黒く声なく沼は眠れり』ボォル・ヴェルレェヌとされているが?) 「龍神さま」を祀る神社の森の奥に、その「龍神沼」があった。 村人たちは沼の底に「龍神さま」が眠っていると信じており、若い「ユミ」も例外ではない。 が、都会からやって来た「研一」はそれは迷信だと笑う。 しかし、そんな「研一」の周囲で不思議な出来事が連続する。 一つは彼の身辺に「白い着物の娘」が出現する様になった事。 「ユミ」に訊ねると「そんな女はこの村にはいない」と言うが、それ以降、彼の脳裏からその娘の姿が離れない。 もう一つは深夜、突然空から降ってきた「火の玉」により、村の二つの農家が全焼してしまった事だ。 その全焼した「与七」と「田吾作」の家が「新しい神社建立のための寄付金」を出し渋っていた事を知り、「研一」は不審を抱く。 実は神社の神主と村長が結託し「龍神さまのお告げ」と偽って村人たちを騙していたのだ。 「火の玉」も村長が密かに隣町から呼び寄せた「弓の使い手」の仕業であった。 翌日、「龍神祭り」の当日。 「龍神沼」の畔で「研一」は「白い着物の娘」と再び出逢うが、すぐに見失ってしまう。 一輪の「白い百合の花」を残して。 祭りの最中。 取り憑かれた様に「白い着物の娘」を追い求める「研一」。 自分の想いが伝わらないもどかしさに傷心する「ユミ」。 そんな二人が「龍神沼」の畔で、神主と村長、彼が雇った「弓使い」の内緒話を聞いてしまう。 彼らが「神を騙り」、村を乗っ取ろうとしていた事を。 「かわいそうだが死んでもらうぜ」 「研一」と「ユミ」の前に立ちはだかる悪者たち。 そして。 二人に矢を射ようとした「弓使い」が突然の落雷により絶命する。 黒雲が空を覆い激しい雷雨となった中、渦巻く「龍神沼」から「白い着物の娘」が出現する。 彼女こそが本当の「龍神さま」だったのだ。 「そこな者 龍神の名をかたり・・・ あしきを なしたる者よ・・・ そのむくいの おそろしさを・・・ 今こそ見せてくれようぞ」 龍神さまの化身「白い着物の娘」が神主と村長に神罰を与えようとしたその時、「研一」が前に飛び出して叫ぶ。 「い いけない・・・ ここ 殺してはだめだ・・・」 「き きみが人を・・・ 殺すなんて だめだ やめて・・・ やめてくれ」 「研一」を見つめる「白い着物の娘」。 静かに項垂れる「白い着物の娘」。 そして次の瞬間、彼女は大きな白い龍と化して天空へと飛び去っていく。 エピローグ。祭りの後。 都会へ帰る「研一」を駅で見送る「ユミ」。 二人の表情は重く暗い。 「さよならっ おじさんとおばさんに よろしく・・・」 「研一さん あたし・・・」 「うん・・・?」 「・・・・・・さよならっ・・・」 定刻通りに汽車は走り出す。 寂しそうな横顔の「ユミ」。 過ぎゆく風景を見つめている「研一」。 彼の心は今なお「白い着物の娘」にあるのだ。 最後のカットは遠景の中を走る汽車。 この作品は「異界の娘に恋をする」という「幻想譚」の一つのパターンを踏襲しています。 都会の青年「研一」は、夏期休暇でやって来た田舎で不思議な異界の娘と巡り逢い、そして恋い焦がれるのです。 「白い着物の娘」はこう描写されています。 着物は柄一つない無地の純白で、髪飾りには「蓮の花」。 その瞳は深く黒く、吸い込まれそうな神秘さを携えています。 そして彼女は「白い百合の花」を手にしています。 ここで気になるのは「百合の花」の「意味」であります。 「花言葉」によれば、「百合」は「純潔」「貞操」「無邪気」「処女性」を表しているといいます。 また、「歩く姿は百合の花」と言われる様に「美人」を形容する花でもあります。 大天使ガブリエルがマリアに受胎を知らせる時に手にしていたのが「白い百合」である事から「聖性」を、多くの神話や伝説に登場する事から「霊的」な意味合いも持っています。 さらに、その強く甘い香りから「妖艶」という意味合いもあるそうです。 「龍神沼」は「二つの失恋」の物語とも言えます。 ひとつは「白い着物の娘」に対する「研一」の失恋。 もうひとつは「研一」に対する「ユミ」の失恋。 「研一」の想いは「白い着物の娘」には届かず、「ユミ」の想いは「研一」には伝わらないのです。 当然、二人の少女の名前が「百合(の娘)」と「ユミ」で似通っているのは偶然ではなく、作者が狙った演出だと思います。 「白い着物の娘」の正体が「龍の化身」であった事が最後に明かされますが、初出の「1961年の雑誌『少女クラブ』」読者たちにも、それは「最初から判っていた」事であったと思います。 物語の力点は「白い着物の娘の正体は龍神さま」にはないのです。 それでは何か。 劇中、こんなシーンがあります。 「龍神沼」の畔でスケッチを始めた「研一」の目の前に「白い着物の娘」が現れます。 驚く「研一」の前で彼女は見つめるばかりで何も話さず、そのまま静かに森の奥へと立ち去ってしまいます。 慌てて後を追う「研一」。 しかし、娘の姿は何処にもなく、意気消沈した「研一」が再び畔に戻ってくると、彼が置き忘れていたスケッチブックに一輪の「百合の花」が残されているのです。 それは娘が持っていた花でした。 「百合の花」をそっと持ち上げる「研一」。 花を見つめる「研一」の瞳に涙が溢れ・・・、 やがて滴となって花弁に落ちるのでした。 何故このシーンで「研一」は涙を流したのでしょうか。 何故「白い着物の少女」は「研一」の周囲に何度も現れたのでしょうか。 何故「研一」は「白い着物の少女」の姿を追い求めたのでしょうか。 そして何故、「研一」は現実の少女「ユミ」ではなく異界の娘「百合」に惹かれたのでしょうか。 それは「白い着物の娘」の姿が、「研一」の「亡くなった姉の姿」と「瓜二つ」であったからだろう、と私は妄想するのであります。 もちろん物語では一切「研一には亡くなった姉がいる」とは語られていませんが、私はそう読むのです。 だからこそ「研一」は「白い着物の娘」の姿に身も心も囚われ、そして静かに涙するのです。 つまり「龍神沼」は、「亡くなった姉の姿を追い求め、現実の少女の愛を拒む(気づかない)物語」であったと思うのです。 「これって、じゃ、『シスコン(シスター・コンプレックス』の話?」と思われる方もいるでしょう。 ある意味、その通りなのであります。 「石森章太郎」には三つ上の「美人の姉」がいました。 彼女は、「石森章太郎」の少年・青年時代の良き理解者であり協力者でした。 少年時代、「石森」が手作りした「漫画雑誌」の一番最初の「愛読者」であり、高校卒業後に親の反対の中「漫画家デビュー」した彼を密かに応援してくれたのも「姉」でした。 東京で漫画家生活を始めた「弟」の面倒を見るため、しばらくして「姉」も上京し、二人の共同生活が始まりました。 1956年の事です。 その「姉」が亡くなったのが、それから2年後の事でした。 享年23歳、彼女は生まれながら病弱であったそうです。 美しかった「姉」。 よき理解者だった「姉」。 そして若くして亡くなってしまった「姉」。 初期の「石森漫画」を注意深く解読していくと、この「亡くなった姉」の存在が物語に大きく影響を与えている事が判ります。 初期の「石森漫画」に登場する、「神秘的」で「魅力的」で「可憐」で「清純」で「美しく」て「優しい」女性像には、全てこの姉の姿が投影されています。 「龍神沼」も、そんな影響の元に描かれた作品であります。 作中「白い着物の娘」が手にしていた「百合の花」、その「球根」には昔から「咳止めなどの肺や気管の炎症を抑える薬用効果」が知られています。 これは石森の「姉」が幼い頃から「アレルギー性喘息」の発作に苦しんでいた事と、決して無関係ではないと思うのです。 蛇足ながら。 「白い着物の娘」が「研一の亡くなった姉の姿」となって現出したのは彼の「姉」への想いの強さゆえだったのかも知れません。 いや、もしかすると「亡くなった姉の姿」に見えていたのは「研一」だけだったのかも知れません。 それはあたかも「ソラリスの海」の様に。 さて。 「姉」と言えば。 「幻魔大戦」であります。 「幻魔大戦」は「昭和42年(1967)」に「週刊 少年マガジン」に連載された作品です。 この「1967年」は「石森章太郎」にとって「もの凄い」年でした。 すなわち、 「シャマイクル(少年サンデー増刊)」 「ミュータント・サブ(別冊少年マガジン・連載)」 「章太郎のファンタジーワールド ジュン(COM・連載)」 「トッポ・ジージョ(小学一・二年生・連載)」 「MYフレンド(少女フレンド)」 「おわりから始まる物語(赤旗日曜版・連載)」 「マンガスクール(冒険王・連載)」 「怪人同盟(冒険王・連載)」 「佐武と市捕物控(少年サンデー・連載)」 「Sπ(エスパイ)(中一時代・連載)」 「受験コースケ(中三コース・連載)」 「トッポ・ジージョ(小学三年生・連載)」 「トッポ・ジージョの恋愛講座(ジュニア文芸)」 「そして・・・だれもいなくなった(少年マガジン・連載)」 「アンドロイドV(毎日小学生新聞日曜版・連載)」 「少年同盟(朝日小学生新聞・連載)」 「シアワセくん(少年マガジン・連載)」 「サイボーグ009(冒険王・連載)」 「奇人クラブ(少年キング)」 「石森まんが学園(少年キング・連載)」 「Sπ(エスパイ)(ビクトリー・連載)」 「吸血(少年サンデー増刊)」 「変身(かわりみ)(漫画読本)」 「あしたのあさは星の上(盛光社)」 「009ノ1(漫画アクション・連載)」 「死人使い(少年マガジン増刊)」 「おれはだれだ(別冊少年キング)」 「Mr-セック氏(プレイボーイ)」 「くの一くずし(ヤングコミック)」 「時間囚人(少年)」 「ドンキッコ(少年ブック・りぼん・小学館コミックス・連載)」 「宇宙大時震(漫画読本)」 「タマ憑(マンガミステリー)」 「ポピーとジージョ(小学一・二年生・連載)」 「チャオ!トッポ・ジージョ(小学三年生・連載)」 を描いていた年なのであります。 1年間で。 馬鹿じゃないかしら。 と思わず呟いてしまうほど、もの凄い作品量なのであります。 もちろん「連載」といっても数ヶ月で終わったモノもあるのですが、それが終わるとすぐさま別の連載が始まっているのです。 信じられないのは、この年だけがこうだったワケではなく、こんな生活がその前後も数年間続いている事です。 現在の漫画家はもちろん、当時の漫画家でもここまで仕事をしなくても楽に生活が出来たハズです。 「石森章太郎」のエッセイを読むと、彼は本当は大学に入って勉強し「新聞記者」か「小説家」になりたかった、とあります。 漫画家は「大学に入るための資金を稼ぐ手段だった」とあります。 とは言え「1967年」は、「石森章太郎」が東京に出て本格的に漫画家を始めてから「11年目」、彼が「29歳」の年にあたります。 おそらく「大学に入る夢」も、「新聞記者になる夢」も、「小説家になる夢」もこの頃にはなく、単純に「漫画を描くのが面白かった」時代なのだろうと推測します。 「幻魔大戦」の物語は、こうです。 満天の星空を背景に、大西洋上空を飛ぶ民間旅客機。 機内には「トランシルバニア王家」の「「第一王女」である「プリンセス・ルーナ」が乗っていた。 彼女は幼少より「テレパシー」「透視」「予知」の超能力を持っており、今しも「旅客機墜落」の「幻視」に悩まされていた。 次の瞬間、それは現実となる。 空中で四散する旅客機。 落下する「ルーナ王女」の肉体から、精神のみが銀河系から「380万光年」離れた宇宙空間へと強制転送される。 そこで彼女は「異星の超能力者 フロイ」から 「大宇宙の破壊者 幻魔」の事を知らされる。 「大宇宙の破壊者 暗黒界の支配者」。 「星々を消し 時間の流れを止め 空間を無に帰する者」。 「すべての生あるものに死を 形あるものに無を 百億年の大宇宙にかんぜんな破滅を」。 「幻魔」は十数億年にも渡って全宇宙を破壊し続けており、いくつもの星雲、一千億の恒星の大半を跡形もなく消滅させていた。 そして、その魔の手は地球の銀河系へ伸びつつあったのだ。 「ルーナ王女」は「フロイ」から送りこまれた「全滅したとある種族の只一人の生き残り」である「サイボーグ兵士 ベガ」と共に、来る「幻魔大戦」のため地球のエスパーたちを探し求める事となる。 「テレキネシス」を使う日本の高校生「東丈」。 「テレポーテーション」を使うアメリカの黒人少年「サンボ」。 「ルーナ王女」の母国「トランシルバニア」から「熊憑きのベアード」「蝙蝠憑きのアルカード伯」「狼憑きの神父」「蛇憑きの女」「フランケン」。 仲間が増えると共に、自分の欲望のために寝返るヤツも出てくる。 知能指数180「ディーク大学の教授」にしてアメリカ陸軍「超心理学研究所」の所長「Dr.レオナード・タイガー」だ。 彼は「虎憑き」であると同時に「サイコキネシス」「サイコ催眠」「四次元移動」の能力を持つ優れたエスパーで、自分を長としたエスパー軍団を組織し人間を支配しようとしていたのだ。 「幻魔」の攻勢も段々と激化する。 「東丈」の「姉」を付け狙う「ゾンビー」。 巨大肉塊球と化しニューヨークを破壊する「サメディ」。 東京を砂漠に変えた「砂幻魔」。 富士山を噴火させ関東を壊滅した幻魔地球侵攻司令官「シグ」。 地球側のエスパーに「フロイ」と「フロイの101匹の息子たち」も加わり、戦いはさらに過酷さを極めていく。 「ドク・タイガー」は愚かな野心のため「幻魔」の奴隷と化す。 「東丈」は富士火口内での戦いで「超新星なみの人間ノヴァ現象」を引き起こし、「第一級エスパー」へと進化を遂げる。 さらに「大火竜」を「超能力絶対0度」で倒す。 「フロイ」の招集に応じて世界中からエスパーが集まってくる。 そして彼らが見上げるその先に、巨大に迫り来る物体。 「月が・・・!!」 本当の「幻魔大戦」が今、始まったのだ。 この作品は「原作・平井和正」「漫画・石森章太郎」となっていますが(ちなみに二人は同年齢)、今で言う「原作者と漫画家の関係」とはちょっと違っていたみたいです。 先に挙げた「石ノ森章太郎のマンガ家入門」によれば、お互いが話し合ってシノプシス(大筋)を作った後、平井が細かいストーリィを書き、漫画にする段階で石森がさらにアイディアを付加、進行しながらさらに意見を交換し合って仕上げていく、というスタイルであったそうです。 原作者名には「平井和正」に加え「いずみ・あすか」という名前も見られますが、これは「石森章太郎」の別名でありました。 私がまず好きなのはこの「幻魔大戦」というタイトルです。 当時もたくさんのSF漫画がありましたが、そのタイトルの多くは「カタカナ」や「漢字+カタカナ」、あっても「漢字+アルファベットor数字」で、「幻魔大戦」のような「漢字四文字」というシンプルで骨太のSF漫画タイトルは珍しく、とてもインパクトがあったのです。 「幻魔(げんま)」という造語の妖しさや禍々しさ。 「大戦」という重々しさと壮大なスケール感。 「幻魔大戦」、そこには勇壮さと悲壮さも感じらたのです。 そして「幻魔」のコンセプトも新鮮でした。 当時の少年SF漫画の「悪者」は皆それなりの「判り易い目的」を持っていました。 「金持ちになるため」「憎い相手に復讐するため」「世界征服のため」「人類を支配するため」等、それなりに「悪者の理屈」があったのです。 しかし、この「幻魔」にはそれがありません。 全ての銀河を破壊し全てを無に帰すためにのみ「幻魔」は存在しているのです。 無のための無。破滅のための破壊。 これは「光瀬龍」の「百億の昼と千億の夜」の「シ」の概念に相当するでしょう。 (どちらが早いのかな?と思って調べてみると、幻魔が1967年、百億が1966年と、百億の方が早いのであります。なるほど)。 そして「姉」の事です。 「東丈」の「姉」の事です。 東京の進学校「青林学園高等部」に通う高校二年生の「東丈」は、野球部の新年度レギュラー選考から落ちてしまい、自暴自棄に陥ってしまいます。 彼は小さい頃から背が低くく体力もなかったため、人一倍努力してレギュラー試験を受けたのですが思いは叶わなかったのです。 家に帰ってからも、弟「卓」に絡む始末。 しかし、体格も良く柔道部の「卓」に敵うわけもなく、「丈」はますます意固地に閉じ籠もってしまいます。 そんな中、「丈」を優しく取りなすのが「姉」の「ミチ子」でした。 毎日帰りの遅い新聞記者の父「東竜介」や亡くなった母の代わりに、「東家」では「ミチ子」が一家の母親代わりだったのです。 なかでも幼い頃から弱虫だった「丈」を、「ミチ子」はいつでも優しく見守り続けてきたのです。 そんな時。 超能力に覚醒した「丈」を捕らえるべく、「幻魔」は「東家」を襲撃します。 そして炎上する家の中で、「幻魔」に捕らわれた「丈」を救ったのは全身炎に包まれた「ミチ子」でした。 彼女は絶命する瞬間、自らの炎を「幻魔」に放ったのです。 「・・・丈 丈ちゃん わすれないでね・・・ おねえさんを そして・・・がんばるのよ 強くなるのよ 丈 おねえさんは いつも あなたのそばに いますからね いつも・・・ そばにいて 見まもって・・・」 「ミチ子」も潜在超能力者だったのです。 「姉」の死を契機に「丈」は自分の甘えた考えを捨て、「幻魔」と戦う決意を固めます。 この姉「ミチ子」は物語の最後の方で再び登場します。 富士火口で「幻魔」の総司令官「シグ」と「丈」が戦うシーンです。 「シグ」により「石化」してしまった「丈」の全身から炎が立ち上がり、勢い「シグ」を焼き尽くすのです。 その炎は人形(ヒトガタ)となり、それは「ミチ子」の姿を取るのでした。 「石化」しつつも涙を流す「丈」。 後に再生した「シグ」によると「あの ほのおの女には殺すべき実体がないっ おまえたちのいう死霊というやつだ 科学的とやらで説明すれば 残留思念の超強力なやつだ」との事で、これが「幻魔の弱点」と分かるのでした。 「残留思念」とはこの漫画で初めて知った単語でした。 当然、「死霊」とか「守護霊」とかは知っていましたが、それを「残留思念」と言い換えた事に「SFだぁー」と子供心に思ったのであります。 さらに言えば「超能力者の残留思念」という概念に「え、え、SFだぁー」と感激したのであります。 これは当時の私の友達の間でも流行し、何かあると「ざ、残留思念?」と互いに口にしたモノでした。 「SFは絵だ」とは有名な言葉ですが、「石森章太郎」は「SFは言葉だ」を実践した作家でもあります。 「麻酔銃」に「パラライザー」とルビを振るセンスが、「昔の石森漫画」には散在していたのであります。 「幻魔大戦」の「姉」のエピソードをもう一つ。 これも実に象徴的なシークエンスです。 覚醒した「丈」が「幻魔」の強大なイメージに触れ「精神崩壊」を起こし「ルーナ王女」が「サイコ・ダイブ」、つまり彼の心の中に入って救おうとする挿話です。 その「丈」の心の中で、彼女が見たのは弟を護る姉の姿でした。 「丈ちゃん あたしはね あなたが強い人になるまで・・・ だれからも尊敬される りっぱな人になるまで 一生 そばにいてあげるわ 力になってあげるわ たとえ およめにいけなくっても!」 「丈!」 「だれっ? あなたは だれ? きてはだめよっ ここはとおさないわっ」 「どいてちょうだいっ あたしは丈に 用事があるの!」 「丈は あたしの だいじな弟よ あ あなたなんかに わたすもんですか・・・」 「幻魔大戦」における「丈」は「章(太郎)」です。 この漫画も石森の「姉」のモチーフを強く感じる作品なのであります。 「幻魔大戦」が「1967年」の1年間(少年マガジン18号〜62号)だけで連載が打ち切られ(信じられない事に当時人気が出なかったのです!)「未完」に終わってしまった事は非常に残念な事でした。 連載を楽しみにしていた私ら読者は最後のページを見て「えええっ!?これで終わっちゃうのぉっ!?」と皆が唖然としました。 「なんで?どうして?」と皆が虚脱しました。 そして「これから一番いいところなのにぃっ!!!」と皆が激怒したのであります。 しかしその数年後、この時のリターンマッチとばかりに「平井和正」も「石森章太郎」も、それぞれの新しい「幻魔大戦」を各媒体で再開しましたが、そのいずれとも「最初の幻魔大戦」の面白さはもはや私には無かったのであります。 「これからが一番いいところなのにぃっ!!!」と激怒しながらも、やはり私は一番最初の「幻魔大戦」が好きなのでした。 それは連載時に読んでいた私の年齢的な事もあるのでしょう。 それは昔の「石森章太郎の絵」が(今でも)好きだという事もあるのでしょう。 いや、それよりも多分。 ひょっとすると。 この「幻魔大戦」のラストに、地球に迫り来る「月」を見上げた全国のエスパーたちの中に、私の大々々好きな「猿飛エッちゃん」の姿がある事なのかも、知れません・・・。 さてさて。 今回は「姉」という切り口で「龍神沼」と「幻魔大戦」を取り上げてみましたが、お気づきの方もいらっしゃる通り、両作とも実はもっと具体的なテーマがあります。 それは「石森漫画」の普遍的テーマである「神を騙る者」なのであります。 が、その話はいずれまた。 これにて「昔の石森章太郎が好き(1)(2)(3)」の三部作エッセイ、一応の完結なのであります。 またまた今回も長いエッセイになってしまいました。 次回はもっと短いエッセイを書きます。 その方が読む方も書く方も楽だし、なのであります。 最後まで読んで下さった方々に感謝いたします。 (追加補足) アニメ「幻魔大戦(1983)」において。 東三千子(東丈の姉)が幻魔の手先「ザンビ」に殺される時、東家に入った警官に姿を変えたザンビの、その玄関の下駄箱の上の花瓶の「百合の花が一輪、落ちる」という描写がありました。 ここでも「姉=百合」とイメージされていました。 原作漫画には無い、アニメだけのカットでした。 |
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