SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.71
「飛ぶ教室」について

(2005年12月10日)


「飛ぶ教室」について書きます。


「飛ぶ教室」と聞いてピンと来る人には、もはや解説はいらないとは思いますが、ケストナーの児童文学「飛ぶ教室」の事であります。

私はこの物語が大好きです。
「冬」になると、そして「クリスマスの季節」になると、この物語を思い出し、何年か置きにウチの本棚から引っ張り出してきて再読してしまうのであります。


「エーリヒ・ケストナー」は1899年生まれのドイツの詩人・小説家で(1974年没)、戦前戦後と、いくつかの優れた「児童文学」を書いています。
「飛ぶ教室」は知らなくても、「エミールと探偵たち」や「二人のロッテ」というタイトルは覚えている方もいるでしょう。
子供の頃、彼の作品を学校の図書館で借り、夢中になって読まれた方も多い事でしょう。


「飛ぶ教室」は「キルヒベルク」にある「ヨハン・ジギスムント高等中学」の「寄宿学校」が舞台です。
「高等中学」というのは、今でいう「小学校高学年、中学校、高校」の「9年間」にあたります。
時代は「1930年」頃、その寄宿舎で繰り広げられる「クリスマス休暇」が始まるまでの数日間の物語です。

「高等科1年生(15・16歳)」の「仲良し5人組」は、休暇の始まる前日の「クリスマスのお祝い会」でオリジナルの「クリスマス劇」を上演しようとしています。
その劇のタイトルが「飛ぶ教室」というものでした。
それは「授業が全て現地検証となる」という「未来の学校」を描いた五幕物で、先生と生徒が飛行機に乗り、「ヴェスヴィアス火山」「キゼーのピラミッド」「北極」「ペテロのいる天国」を巡るというお芝居でした。

戯曲の作者は「ヨナタン・トロッツ」(愛称はヨーニー)。
彼は幼い頃両親に捨てられた可哀想な子供でした。
親代わりとなっているのは「大西洋航路」の「船長」。
今年は船長が航海中のため、彼には二週間に渡る休暇中も帰る場所がなく、学舎に一人居残る事になっていました。
「心配しないでくれたまえ。ぼくはひどく幸福じゃないよ。幸福だといえばうそになるだろう。しかし、ひどく不幸でもないよ。」
彼は詩や物語を愛し、将来「作家」を志す少年でした。

舞台の美術を担当しているのが、学年主席で正義感の強い「マルチン・ターラー」。
「5人組」のリーダーである彼は、「半給費生」で「補助金」を貰う貧しい家庭の子供でした。
そんな時、帰省する事を楽しみにしていた彼の元に届いた封筒には、優しい母親の詫びる手紙と「切手5マーク分」しか入っていませんでした。
実家への旅費は「8マーク」かかるのです。
失業中の父親には「5マーク」を捻出するのが精一杯だったのです。
それ以降、彼は仲間に心配させまいと「泣くこと厳禁!」と強く心に言い聞かせるのでした。

食いしん坊で腕っぷしの強い「マチアス・ゼルプマン」(愛称はマッツ)は、喧嘩の時には頼りになるヤツでした。
揉め事の時に、いつも真っ先に飛び出していくのが彼でした。
彼は「ボクサー」になる事を夢見ていました。
楽しみは毎昼食後に「パン屋のシェルフ」で「20ペニヒ」の菓子パンを買う事。
学校の成績は「ビリ」でしたが、仲間を思いやる優しい心を彼は持ち合わせていました。

その相棒で「ちび」で「弱虫」なのが「ウリー・フォン・ジンメルン」。
貴族出の両親を持つ彼は、学校のみんなから「臆病者」と呼ばれている事にいつも深く傷ついていました。
確かに喧嘩の時には、いつも「マッツ」の影に隠れていたのです。
そんな彼が校庭の高い「体操はしご」のてっぺんから、級友たちが驚いて見守る中、「雨傘」を開いて飛び降りたのは「クリスマス劇」の前日の事でした。

授業中密かに「遺伝学の本」や「哲学書」を読んでいるのが「セバスチャン・フランク」。
彼は学内一の「切れ者」で弁の立つ少年でした。
彼の前では上級生たちもやり込められてしまう程でした。
しかし理屈っぽさはどこかシニカルに、その孤高さゆえに彼はとても「孤独」だったのです。
「だれにでも欠点と弱点があることは、ぼくだって知っている。その欠点をおもてにだせないということだけが問題なんだ。」


そんな彼らを優しく見守る大人たち。
「舎監」であり生徒たちから親しみを込めて「正義先生」と呼ばれている「ヨハン・ベク先生」。
学舎近くの菜園に廃車となった「禁煙車専用の二等客車」を置き、そこで暮らしている世捨て人の「禁煙先生」。
厳格なドイツ語教師「クロイツカム教授」。
そして老年の校長先生「グリューンケルン博士」。

数日間の間に起こる様々な出来事。
少年たちは喜び、怒り、悲しみ、驚き、笑い、そしてまた一つ成長するのでした。


ドイツ文学には「ヘッセ」の「車輪の下」に代表されるような「寄宿舎」つまり「ギムナジウム」物の系譜があります。
「聡明」で「無垢」な少年たちが「いかに傷つきやすいか」を描いた一連の作品群です。
(このギムナジウム物は日本の少女漫画に影響を与えますが、それはまた別の話)

本作品の「まえがき」にケストナーはこう書いています。
「どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?
そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?」
また、こうも書いています。
「子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません」
そして、こう勇気づけるのです。
「みなさんは、ボクサーのことばをかりると、受け身になった場合にも、がんばらねばなりません。
打撃を忍んで、こなしていく修業が必要です。
そうでないと、世の中に出て、最初の一発をほっぺたに食らうと、グロッキーになります。
世の中というものは、とほうもなく大きなグローブをはめていますよ、みなさん!」


児童文学は子どもたちを勇気づけるために書かれた物語です。
ですから、子どもの頃に面白い児童文学に巡り会う事はとても幸せな事です。
ですが、優れた児童文学は「大人が読んでも」十二分に面白い物語です。
児童文学は決して「子ども向けの小説」ではなく、「純化された物語」なのです。
そして優れた物語は、何度読んでも「面白く」、何度読んでも「新しい発見」があるのです。

「飛ぶ教室」は、「はらはら」したり「悲しい」出来事も起こりますが、最後にはとても幸せな気分になる、やはり良く出来た「クリスマスの物語」です。
そう、「ヨーニー」の言葉を「再び」引用すれば、
「幸福だといえばうそになるだろう。しかし、ひどく不幸でもないよ」なのでした。


「飛ぶ教室」の劇中劇「飛ぶ教室」で「マチアス」演ずる「ペテロ」のセリフ。

「探求すべきものは探求せよ
探求しえざるものをさぐるをやめよ
なんじらは何か禁止されると 腹をたてる
それは承知している
なんじらは何でも知っているようにふるまう
なんじらは、十分の一を知るためにも
まだたくさん知らなければならぬのに」



私は「飛ぶ教室」に描かれている「ワルター・トリヤー」の挿し絵も大好きです。

「トリヤー」は「1890年」にチェコで生まれた画家です(1951年没)。
ケストナーの児童文学の多くが彼の挿し絵で彩られ、「ケストナー」と言えば「トリヤー」のあの丸っこい親しみやすい絵を思い浮かべる人も多いと思います。
「児童文学」と「挿し絵」はとても密接で、互いが互いを補っている事が分かります。

また、この岩波書店から出ている(1962年第一版)「ケストナー少年文学全集4」の「飛ぶ教室」の装丁も、実に素晴らしいものです。
品良くとてもお洒落な色使いが、「いつまでも大切にしたい一冊」である事をいつも思い出させてくれるのです。



さて、最後に。

ドイツ語教師「クロイツカム教授」の
「おこなわれたいっさいの不当なことにたいして、それをおかしたものに罪があるばかりでなく、それをとめなかったものにも罪がある」
というのは実に象徴的なセリフです。

何故なら、この「飛ぶ教室」が発表された「1933年」は、ドイツで「アドルフ・ヒットラー」が政権を握った年でもあったのです。




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