SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.80
「血塗れ美少女の系譜」
について

(2007年7月7日)


ブライアン・デ・パルマの「キャリー(1976)」は、スティーブン・キング原作の数少ない成功した映画化の一つであり、正統的な「血塗れ美少女の系譜」に位置する作品でもあります。

え?主演の「シシー・スペイセク」は「美少女」じゃないって?
それは主観の相違なのであります。

今回は私の好きな昔の「ホラー映画」「SF映画」のお話です。



主人公「キャリー・ホワイト(キャリエッタ・N・ホワイト)」はメイン州西部の田舎町チェンバレンの「ユーウィン・ハイスクール」に通う17歳の高校生。
彼女は、狂信的な母親から家で虐待を受け、学校では級友たちの執拗な虐めに合い、孤立無援の惨めな日々を送っていました。

そんな彼女の真の力、恐ろしい能力が一気に目覚めたのは、「1979年5月27日」の夜、高校生活最後のプロムナード・パーティでの事でした。
悪友たちの奸計により、ステージ上で「豚の血」を全身に浴びた彼女は、全ての理性を失い忌むべき「超常の力」を暴走させてしまったのです。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化すダンス会場。
その中、悪鬼の様に屹立する「血塗れ美少女」が一人。
彼女の視線の先にはもはや「こちら側」はなく、ただただ虚空の「向こう側」しか見えなくなっていたのです。

「ホラー好き」なら、ここで屈折した暗い喝采を送るでしょうし、昔からの「SF好き」なら「イヤボーン効果」という単語を思い浮かべるかも知れません。
「イヤボーン効果」とは、70年代の日本のSF小説や漫画やアニメで流行っていた、普通の主人公が(得てして美少女ですが)悪者たちに捕らわれ窮地に陥った際「いやぁぁっ!」と叫んだ直後、封印されていた超能力が突如発動され、自分の周囲を「ボーンッ!」と破壊していく・・・という、マニアの間で浸透していた「定番作劇」の俗称であります。
つまり「SF 火事場の馬鹿力」。


実相寺昭雄の「帝都物語(1988)」でも、魔人「加藤保憲」に幼い「辰宮雪子」が銀座の街中で攫われる時、彼女の絶叫が電柱から火花を飛ばし、街灯を破裂させショウウインドウのガラスを砕き、看板を吹き飛ばすのであります。

ビックリした事に最近、ブライアン・シンガーの「スーパーマン リターンズ(2006)」でも、この「イヤボーン」が使われていましたっけ。

話を「血塗れ美少女」に戻します。



ダリオ・アルジェントも一連の「血塗れ美少女」を描いてきた監督です。
その中でも私が一番好きなのが「サスペリア(1977)」でした。

バレリーナ志望の少女「スージー・バニヨン」が、単身ニューヨークからドイツの「エッシャー街」にある名門「フリブルグ・バレエ学院」にやって来たのは、雷鳴轟く激しい嵐の夜の事でした。
彼女はそこで異常な連続猟奇殺人事件に巻き込まれてしまうのです。

その学院は「1895年」に「黒い女王」の異名を持つ有名な魔女「エレナ・マルコス」によって創設され、学院の運営陣はみな彼女の信奉者だったのです。
しかも今なお生き続けているエレナを中心に、夜ごと魔女の集会が学院の隠された部屋で行われていたのでした。

ダリオ・アルジェントの演出はケレン味たっぷりで、とてもスタイリッシュであります。
恐怖に怯えるヒロインの顔の長回しや、思わせぶりなインサート・カット、「必要以上」に不気味な登場人物たち。
中でも私が好きなのは「リアリティ」とは無縁の、突然始まる「青」「緑」「赤」という原色フィルターを使ったライティングです。
ある時は部屋全体が「緑色」に染まり、扉を開けると向こう側の廊下は「赤色」に染まっているのです。
その中を息を殺して忍び歩くヒロインを、カメラは執拗に執拗に舐め回していくのです。
真っ赤な光に包まれたヒロインの姿は、恐怖の表情と合わせ、とても艶めかしくエロティックでもあります。

かくしてダリオ・アルジェントは象徴的に、そして実に効率的に最短の方法で「血塗れ美少女」を創り上げる事に成功したのであります。



「サスペリア」と同じ年、日本でも「血塗れ美少女」の傑作が作られています。
大林宣彦の「HOUSE ハウス(1977)」です。

「オシャレ」「ファンタ」「ガリ」「クンフー」「マック」「スウィート」「メロディ」の7人の少女たち。
夏休みを過ごすためにやって来た山奥の洋館で、彼女たちは次々に「屋敷に襲われ」「喰われていく」というお話でした。

一人は井戸に一人はピアノに、そして一人は柱時計に。
身体を「囓り取られる」様にバラバラに、屋敷のいろいろな場所で血塗れになり「喰われていく」のです。
一見シリアスな「スプラッター物」と思われるかも知れませんが、本作品の基調は「コミカルな漫画」にあります。
彼女たちが襲われる描写は、グロテスクですがスラップスティック。
チープでシュール、リリカルでラジカルなのであります。

そんな中、一人だけ果敢に仲間を護るため、怪物と化した「羽臼屋敷」と戦おうとする少女がいます。
「クンフー」です。
「神保美喜」演じる「クンフー」は、日本映画で初めて漫画チックな「戦闘少女」の格好良い実写化に成功したキャラクターであり、今でも数多くの根強いファンを持つ、私も大好きなキャラなのであります。



そして「砂の惑星(1984)」。
フランク・ハーバートのカルト的な人気を誇る原作を、あのデビット・リンチが映画化した作品です。

異様に凝りまくったセット・デザインやキャラクター造形は、リンチだからこそ実現出来た見事な「異世界」を構築していました。
が、しかし、この監督、あまり「合成ワーク」は得意じゃないらしく(得意じゃないと言うよりも、多分、好きじゃないのでしょう。好きじゃないと言うより、全く興味がないのでしょう)、SF映画であるにも関わらず、宇宙船が登場するシーンが、みな「お座なり」「適当」になっていたのがとても残念だったのであります。

とは言え、映画のラストで主人公「ポール・アトレイデス」の幼い異能の妹「アリア」が、宿敵「ハルコネン男爵」を倒す場面は圧巻です。
あどけない、と言っても「アルビノ」で「青い眼」を持つ異形の彼女が、白刃一閃、何の躊躇いもなく男爵に神経毒を注入し、彼の反重力スーツの制御装置を切り裂くシーン。
そのまま男爵はコントロールを失い宙を舞い、超巨大な砂虫に呑み込まれていくのでした。

その後、爆炎立ち上がる城の前庭で、彼女が恍惚の表情を浮かべゆったりと舞うシーンは、映画公開から20数年経った今でも私の記憶に残る大好きなビジュアルとなったのであります。

この場面の「アリア」は実際には「血塗れ」ではないのですが、可愛らしい表情に隠された嬉々とした禍々しさに、私は「血塗れ美少女」のイメージを強く感じるのです。



トビー・フーパーの「スペース・バンパイア(1985)」。
76年に一度、地球に接近する「ハレー彗星」。
その中には「直径32キロ」、「全長240キロ」にも及ぶ異星人の宇宙船が隠されていました。

そこで発見された3体の人間型エイリアンの死体は、調査研究のためロンドンにある「欧州宇宙研究センター」に運び込まれてしまいます。
しかし、彼らが他種族の生命エネルギーを吸収する恐ろしい吸血鬼であった事から、ロンドンが壊滅する大事件へと発展してしまうのでした。
次々と被害者を増やし逃走する吸血鬼を追って、「SAS(英国陸軍特殊部隊)」の「ケイン大佐」と「米国空軍」の「カールセン大佐」が捜査に乗り出します。

ヘリで犠牲者をロンドン郊外の「サルストン精神病院」からセンターへと移送中、突然遺体から吹き出した大量の血液が「女バンパイア」へと「実体化」するシーンは、この映画の白眉なのであります。

本作品は、決して一級のSF映画ではありませんが、イギリスが舞台になったSF映画である事と(イギリス人作家コリン・ウィルソンの原作通り)(クライマックスのロンドンが阿鼻叫喚の地獄と化すシーンは、これまた私の大好きな大昔のSF映画『火星人地球大襲撃/1967』を思い起こさせます)、馬鹿馬鹿しいほど格好良く高鳴る「ヘンリー・マンシーニ」のテーマ曲と合わせ、実にケレン味溢れる映画となったのでありました。



宮崎駿の「もののけ姫(1997)」は、彼のフィルモグラフィーの中でも実に特異な作品だと言えるでしょう。

それは本作品に「腕や頭が斬られ跳ぶ」という直接的な残酷描写があるという事より、ヒロインが「血塗られて」いる事にあります。
これは象徴的な意味ではなく、具体的な作画として彼女は「血塗られて」いたのです。

「ボーイ・ミーツ・ガール(Boy meets girl)」は、宮崎駿の初の監督作品「未来少年コナン」から始まり「カリオストロの城」「天空の城 ラピュタ」へと続く、昔から彼が得意とする作劇術の一つで(もちろんこれは、初期の東映動画作品を踏襲しているのですが)、本作でも主人公「アシタカ」が「サン」と出会う事で物語は動き出します。

そして問題なのはその時、彼女の顔が血に塗れているのです。
映画の序盤、サンの育ての親の山犬「モロの君」が「タタラ場一行襲撃」の際に受けた傷の毒を吸い出し、その血を「ペッ」と吐き出し、口を拭うという荒々しいシーンです。
今までの「宮崎アニメ」では決して見る事のなかった(多分、これからも無いと思うのですが)ヒロインの初登場シーンに、私はとても驚いたのであります。
そして新しい「宮崎ヒロイン」の誕生に、私は狂喜したのであります。

こうして、「もののけ姫」は宮崎駿唯一の「血塗れ美少女」になったのでした。



狭義的に言えば、これら「血塗れ美少女」にも「被害者」「加害者」の違いがある事と思います。
彼女たちはある時は薄幸な犠牲者であり、またある時は残忍な殺戮者であります。
上記の「サスペリア」「ハウス」は前者であり、「砂の惑星」「スペース・バンパイア」は後者でありましょう。
今敏の「パーフェクトブルー(1998)」は「薄幸な犠牲者」であり、北村龍平の「あずみ(2003)」は「残忍な殺戮者」なのです。

が、しかし、「キャリー」で明かな様に、「ホラー映画」「SF映画」における「被害者」「加害者」には実は大した境界はないのであります。
「被害者」はいつでも「加害者」へと変貌し、「加害者」はいつでも「被害者」に転ずるのです。


「少女とは水分の多い少年である」とは誰が言ったセリフか失念してしまいましたが(この出典をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひとも私に教えて頂きたいのであります。足穂系かな?と思って一時期探したのですが発見出来ませんでした)(『少年とは水分を失った少女である』という言い回しだったかな?)、「血塗れ美少女」における「少女と血」には実に判りやすい隠喩があります。
誰もが察する様に、彼女たちの成長過程の中で「血」はとても重要で大切な意味を持っています。
「血塗れ美少女」を描いた映画の多くが、リリカルでエロティシズムに溢れているのも、これ当然なのであります。

「少女」は「血」と合い塗れる事によって何かを失い、何かを得て、そして「覚醒」するのでしょう。
それは彼女たちの「第二の誕生」なのです。



と、ここまで書いてきて、私はとても大きな間違いをしている事に気がついてしまいました。
「もののけ姫は宮崎アニメ唯一の血塗れ美少女だ」と指摘した事です。
私はもっと有名で重要な作品を忘れていたのです。

血を全身に浴び、血塗れになる事によって、その後の人生を運命付けられた一人の少女の物語。
その物語の中では、「血」という直接的な表現は避け、「体液」と呼ばれていましたが。

そう、「風の谷のナウシカ(1984)」なのであります。

「王蟲」の「血」を全身に浴びる事によって、彼女は「青き衣の人」として伝説になったのでした。




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