SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.98
「卵付きカツ丼のセレナーデ」
について

(2008年10月25日)


大昔の話を書きます。
私が大学生だった頃の話です。



私の通っていた大学の近くに「山田屋食堂」という学生向けの定食屋がありました。
「山田屋」なんて名前は今日日全国各地にありますが、今回私が書くのは1980年頃、東京神田水道橋にあった「山田屋食堂」の事なのであります。


多くの学生街の大衆食堂がそうである様に、その「山田屋」は、貧乏で金のない学生たちに日々安価なメシを提供するという、実に良心的な定食屋でありました。
もちろんここにも、「金のない学生」と「質よりも量を優先する飯屋」という実に美しい需要と供給のバランスが成り立っていたのです。

店の入口が質実剛健なサッシ造りであった事や、店内が妙にこざっぱりと広々していた事を考えると、「明治時代から学生街に続く由緒正しい老舗定食屋」などではなく、昭和40年頃、空き地に取り敢えず急場しのぎで作られた店であった事が判ります。
それでも私が大学にいた頃には、すでに数年の歴史があった様で、基本的に4年間しか大学、その街に通わない私たちにとっては、十分に「歴史」を感じさせる店でありました。
大学の先輩たちには頻繁に、「山田屋に飯。行こうか」と誘われたモノでした。
「ラーメン」「カレーライス」「ナポリタン」などの学生街ベーシックは勿論、「鯖煮定食」「ハンバーグ定食」「唐揚げ定食」といった定食類も常備してありました。
ここに無かったのは「カニクリーム・コロッケ」や「ラザニア」といったちょっと小洒落たモノか、「刺身定食」や「天ぷら定食」等の値段が張るモノだけでしたが、当然、 学生街の定食屋でそんな料理を注文する人も少なかったのです。


愛すべきはここの親父のキャラクターでした。
「山田屋」に入るといつも真っ先に接客、注文を聞いてくれる親父でした。
私たちは皆、ここの飯よりもまず、この親父を愛していたのです。

白髪交じりの五分刈りで、威勢のいい小柄な老人でした。
その頭に捻り鉢巻を締めていたのは、威勢を付けるためでしょうか。
ラーメン屋の親父が着るような無地の白い法被を着ていました。
襟には「山田屋食堂」という縫い取りがあり、足には黒いゴム長靴を履いていました。
もう一つ忘れてならないのは、彼が非常に度の強い黒丸渕の眼鏡を掛けていた事です。
店内に入り手を上げて注文すると、機嫌の良い時にはニコニコと大声で「へーい」と応えつつ、メモ帳片手にテーブルまで突進して来ます。
それを聞き、奥の厨房に伝達する為です。
客への対応は全て彼に任されており、「彼がここの主人なのだろう」と思っておりました。

もちろん、本当はどうかは不明した。
単なる年寄りの使用人であったのかも知れませんが、私らは皆、「山田屋の親父」と親しみと尊敬を込め呼んでいたのでした。

多くの学生街の大衆食堂がそうである様に、この「山田屋食堂」も注文してから瞬時に、「今作ったの?本当に?」と疑問を感じさせずにはいられない程アッと言う間に、料理がテーブルに運ばれてくるのでした。
もちろん「アツアツ」の状態で、「チン」の音もなく、です。

彼の大ファンである先輩たちは、「山田屋の親父」をさっそく漫画キャラクター化しておりました。
これです。



紛う事なく、これが「山田屋食堂」の親父の姿でした。
誇張もデフォルメもなく、本当にこのままの姿をしていたのです。

私の頃はすでにピークを過ぎていましたが、学生運動華やかなりし時、警官隊に追われる若い学生たちを、自ら真っ先に「山田屋食堂」に数日間匿った、という彼の有名な武勇伝も残されておりました。


そしてもう一つ。
多くの学生街の大衆食堂がそうである様に、彼も料理をテーブルに運んでくる時には、自分の「親指」を「ドンブリ」の中に「突っ込んで」持って来たモノなのであります。
「ラーメン」であろうが「チャーハン」だろうが、数種の小皿をまとめてトレイに乗せ運ぶ「定食類」でない限り、「ドンブリ物」の際には必ず、「親指をそのドンブリに突っ込んで」持って来たのです。
その方が確かに持ちやすく、「次から次へとチャッチャと運べるから」なのでしょうが、「なんて汚いんだ」と怒るより前に、「ま、学生街の安い店だから、しょうがないよな」と私らは皆、納得していたのです。
いや、「それが学生街の定食屋のあるべき正しい姿なのだ」とすら、思っていたのでした。
仕舞いには、「親父はあの親指で、今日の料理の出来具合を調べているのだ」だの、「親父はあの親指で、今日の自分の体調を計っているのだ」などといった噂話すら、まことしやかに囁かれる始末なのでした。


問題はそこで注文した「カツ丼」にありました。


今ではそうでもないかも知れませんが、「カツ丼」と言えば当時は「ご馳走」でした。
もちろん、学生街で食う「カツ丼」ですから、普通の街の「洋食屋」で食う「カツ丼」とは違うだろう、とは思っていました。
それでも「山田屋食堂」でそれが運ばれて来るまでは、大きく期待に胸を膨らませ、実際それを見て唖然と言葉を失い、そして深く静かに絶望したのでした。
その「カツ丼」は卵でとじていなかったのです。


当時の私の常識としては、いや、今の私の常識としてもそうなのですが、「カツ丼」とは、「トンカツと玉ねぎを割り下で軽く煮て、最後の仕上げを生卵でとじ」、それを「どんぶり飯の上に乗せたモノ」だと思っていたのですが、その「山田屋」の「カツ丼」は、この最後の仕上げがなかったのです。

私はその時まで「卵でとじていないカツ丼」が出てくるとは、まったく想像していませんでした。
それは例えばカレーが掛かっていない「カレーライス」や、ハンバーグの入っていない「ハンバーガー」同様、まったく想定していなかったのです。
猿軍団のいない「日光江戸村」や、ミッキーマウスのいない「ディズニーランド」を想像出来ないのと同様でした。
満面の笑みを浮かべたカーネルサンダースが立っていない「ケンタッキー・フライドチキン」や、「喜んで!」と店員が次々と連呼しない「やるき茶屋」みたいなモノなのでした。

その「カツ丼」を前に、激しく動揺した私を見て、「山田屋」に誘ってくれた先輩は何故か「してやったり」と、とても嬉しそうでした。


卵でとじていないこのカツ丼を「煮カツ丼」と呼ぶ事は、後年もっと大人になってから知りました。
しかし、当時の私は「ダマされたっ!」「これは何かの間違いだっ!」と思ったのでありました。
「厨房のコックが最後の仕上げを忘れたのだっ!」「学生だから気が付かないだろう、と舐められたのだっ!」と憤慨したのでした。

「カツ丼」に、「ソースカツ丼」「煮カツ丼」「タレカツ丼」「デミグラスカツ丼」「味噌カツ丼」等々、いろいろな種類がある事は今では知っています。
「カツと玉ねぎを出汁で煮る」王道の「カツ丼」自体にも、最後「卵でとじるタイプ」と「卵でとじないタイプ」の2種類ある事も知っています。
しかし、その時、二十歳前の私にとっては、「卵でとじていないカツ丼」など信じられず、理解出来ず、全く許せなかったのでした。


大学生になって、人の食生活は大きく変化します。
初めて外で酒を呑む様になり、初めて炉端屋の暖簾を潜り、初めて「ほっけ」なる魚を注文し食った時の感動も、今でも忘れる事はありません。
ずっと関東育ちの私にとって、こんな大きな魚を見る事は無かったのです。
小骨が少なく、とても食いやすく、こんなに淡泊で、さっぱりして旨い魚がある事など、私はその時まで知らなかったのでした。
関東生まれ育ちの私の家庭では、「ほっけ」なんて魚が食卓に上る事はなかったのです。

同様に「煮凝り」や「カマ焼き」なども、大学生・社会人になり、初めて炉端屋で知った料理なのであります。


話を「山田屋」の「カツ丼」に戻します。

この時私は初めて、「山田屋食堂」の壁に掛かっていたお品書きを見る事になります。
そこにはこう書かれていたのです。

「カツ丼 350円」。
「玉子入りカツ丼 380円」。
・・・えっ?

ここ「山田屋食堂」には、通常廉価版の「カツ丼」と、特別高級版の「玉子入りカツ丼」の2種類があったのでした。



時が過ぎ、大学1年生だった私にも、初々しい後輩が誕生します。
その後輩たちに昼時、「ね。飯でも行こうか?山田屋でカツ丼でも食おうか?」と頻繁に誘う様になったのも、至極当然の成り行きなのであります。

いつか後輩の女の子を誘い「山田屋」に行った事もありました。
その時の私は、最初に誘ってくれた先輩みたく、ちょっと得意そうで何かを企んだ様な、小狡い顔をしていたに違いありません。
私はさっそく、「ここのお薦めは、カツ丼、かな」と彼女に進言しました。
しかし彼女は、素早く壁のお品書きの列を走査した後、ニッコリ笑って「あ、私はスパゲッティです」と言うのでした。
ちぇ。


大学時代に通った飯屋は、その後何十年経っても、かなり強烈な印象を残しているモノであります。
それは自分の意志で自分が好きな飯屋を探し出し、そして気に入れば4年間通う事になるからであります。
それらの店が長く記憶に残っているのも、もう二度と戻る事のない学生時代のあの頃を、その飯屋を通じてまざまざと思い出せるからかも知れません。

大学のある駅の隣りビル地下に、「サンビーム」と言うカフェテリア形式の洋食系食堂がありました。
主に「フライ」などの揚げ物や「ハンバーグ」のお店でした。
量が自慢の学生街の食堂とは言え、ここの「三枚カツ定食」はかなり凶悪でした。
文字通りトンカツが三枚も付いてくるのです。
当然カツ大好きの私は、頻繁に通う事になりました。
「いやあ、今日もサンビーム行って、胸焼けちゃったよー」と言いつつ、数日後には再びいそいそと出掛けたモノでした。

「わいわい」は私が3年の頃出来たカレー専門店でした。
大きい具がゴロゴロ入ってると言うより、細かくカットした肉や玉ねぎ、ジャガイモが、ルーと一緒に長い事煮込まれている、というタイプのカレー屋でした。
この店は値段の安い事でも知られ、並と大盛の値段が一緒、その大盛のさらに上の「ジャンボカレーでも「290円」だったのです。
当時の私たちは金が無くなると、「じゃ今日は、わいわいでも行こかー」とよく言っていたモノでした。
ここの私のお気に入りは挽肉カレーの大盛りでした。

今でもある「トンカツのいもや」や「天丼のいもや」も、当時よく行った飯屋でした。
ここの「トンカツ」には「これ明らかに半玉は刻んでるよな」と思わせるほど大量の千切りキャベツが付いてきたのです。
ここで食うと、「もう一ヶ月はキャベツ食わんでも良い」と思わせるほどでした。
ここの蜆の味噌汁も私は大好きでした。

チェーン店で有名な「牛丼の吉野家」も、大学時代に出来た店でした。
私の好きな歌姫「中島みゆき」の「狼になりたい」の中で、「♪夜明け間際の吉野家では♪」と唄われたのも、ちょうどその頃の事でした。
残念な事に、当時一回も徹夜明けのキャバレーの女の子と同席する事はありませんでしたが、近所の炉端屋が終わった後も、ここで牛丼と生姜を肴に、遅くまでビールを呑んでいたモノでした。

「青い鳥」は私の贔屓の喫茶店でした。
ここに来るといつも誰か知り合いに会えました。
逢えずとも、2・3時間後には必ず誰かがやって来たモノです。
多くの学生街の喫茶店がそうである様に、この店もコーヒー一杯で半日、6時間居座っていても何ら文句は言われなかったのです。
今にして思えば、何を友達と何時間も話し続けていたのか、とても不思議、謎なのでした。


今でもチェーン展開を続けている「いもや」や「吉野家」を除き、私の想い出の店は全て無くなってしまいました。
「山田屋」ももうありません。

私が大学を卒業して、数年後に「山田屋」は無くなってしまったのでした。
何処かに移転したという話は聞きませんので、残念な事に廃業してしまったのでありましょう。
常識的に考えれば、「山田屋の親父」も、すでに亡くなっているに違いありません。



私がそこで過ごした4年間は、今にして思えば短い時間でしたが、その毎日は実に充実し凝縮しており、今でもいろいろな事を思い出したりするのでした。
「ひょっとしてあれは全て夢だったんじゃないかしらん?」と思ったりもするのですが、当時の友人や女友達から貰った手紙が今でも残っており、それを時々引っ張り出して読み返す度に、「ああ、あの時は本当にあったんだなあ」などと思うのであります。

いずれにせよ、過ぎ去っていった昔は二度と戻らず、卵でとじていない「山田屋」の「カツ丼」も、私はもう二度と食う事は出来ないのでありました。


(追加補記20100806)
最近都内で「あっさりカツ丼」なるモノが流行っているのだそうな。
ま、TVの夕方のバラエティ・ニュース番組でやっていたから(なんで夕方のTVはみんな食い物の話をするのだろう。ダイエットに励んでいる者には、これ拷問じゃないか!)、どこまで「巷で大流行」かどうかは判らないのですが。
これは新潟発祥の「B級グルメ」で、「何と卵で綴じないカツ丼なのです!」と言う。
その「タレカツ丼」、「800円」。
そんなの大昔、水道橋でもあったよー、などと思うのであった・・・。
♪回る回るよ時代は回る〜♪



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