SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.99
「雨は主に広野に降る」
について

(2008年12月28日)


The rain in Spain stays mainly in the plain.

スペインの雨は主に広野に降る、のであります。



ご存知、ミュージカル映画「マイ・フェア・レディ(1964)」に登場する歌詞のフレーズです。
私はこの映画もこの歌も、大好きなのであります。

19世紀のイギリス人作家「バーナード・ショー」の戯曲「ピグマリオン」は、後にブロードウェイで大ヒットを飛ばすミュージカル舞台劇(1956)となりました。
それをさらに映画化したのが本作品であります。


私がこの映画が好きなのには、いくつかの理由があります。

一つは、この映画が私の大好きな「19世紀ロンドン」を舞台にしている事です。
栄光のビクトリア朝の次の時代、1912年エドワード朝の4月のとある朝から、この物語は始まります。
その2年後には「第一次世界大戦」が始まってしまいますので、「楽園最後の時」と言うワケです。
二つ目は、全てのシーンがスタジオで撮影されたハリウッド黄金時代末期の「超大作」である事です。
一見、ロケに見える広大な「コベント・ガーデン広場」や「アスコット競馬場」等のシーンも、全てがスタジオ内に組まれた巨大なセットなのです。
これには本当に驚かされます。
三つ目は、その巨大なセットの中で多くのエキストラたちが、皆活き活きと自然に動き回っている事です。
これは用意周到に計画され実行された、素晴らしい演出の賜物であります。
下町の人々の貧しい衣装も、上流階級の豪華なパーティ衣装も、皆この映画のためだけに作られた「オリジナル・デザイン」である事にも驚かされます。
四つ目は、主演の二人「オードリー・ヘップバーン」と「レックス・ハリスン」の見事な芝居です。
粗野な下町の花売り娘を演じたヘップバーンの愛らしさも、無骨で頑固な言語学者を演じたハリソンの子供っぽさも、とても魅力的なのであります。
そして・・・何よりも・・・。

私がこの映画が大好きなのは、全20曲の素晴らしい歌が詰まった「ミュージカル」である事であります。
その20曲の歌は、どれもが楽しく、どれもが感動的な名曲ばかりです。
いつ聴いても、愉快な気持ちになって思わず一緒に口ずさんでしまったり、何回聞いてもジーンと感動して涙ぐんでしまったりする名曲ばかりなのでした。


中でも「スペインの雨」は本物語を象徴する、とても有名な歌です。

有名な言語学者「ヒギンズ教授」はフト知り合った「ピッカリング大佐」を相手に、「訛だらけの貧しい下町娘でも、教育次第では立派な上流階級のエレガントな娘に仕立てる事が出来る」と持論を披露します。
これが二人の賭になりました。
この賭の「実験材料」に選ばれたのが、「コベント・ガーデン」の貧しい花売り娘「イライザ」でありました。
彼女には激しい「コックニー訛」があったのです。

ロンドンの下町言葉「コックニー訛」は、「二重母音」が上手く発音できず「ei」と発音すべきところが「ai」となってしまう特徴を持っています。
つまり「rain」を正しく「レイン」と発音出来ず、「ライン」と訛ってしまうのです。
日本語で言えば、「鮨=すし」が「すす」と訛ってしまう様なモノでしょうか。
本作品の表題も、実は「Mayfair Lady」つまり「ロンドンの高級住宅街メイフェアに住む淑女」が「コックニー訛」によって訛って「マイ・フェア・レディ」になってしまったと言う、実に気のきいた洒落たタイトルなのであります。
もちろん、ダブルミーニングでもあります。

「コックニー訛」で有名なキャラクターと言えば、「サンダーバード(1965〜68)」のロンドン支部員「レディ・ペネロープ」に仕える、元銀行破りの執事「パーカー」を思い出します。
この「コックニー訛」、日本語吹き替えされる時は、「東北弁」や「江戸弁」になるに事が多いのですが、サンダーバードではただの「執事言葉」になっていて、ちょっと残念だったのであります。

「The rain in Spain stays mainly in the plain」。
これは「ヒギンズ教授」が「イライザ」に与えた「練習句」でした。
韻を踏んだ「早口言葉」で、「ai」とならずに「ei」と正しく発音する事で「コックニー訛を矯正する」ものでした。

数週間に及ぶ激しい特訓の日々。
彼女の訛りはなかなか直らず、反対に教授や大佐に訛りが移ってしまったりします。
しかし、皆が精魂疲れ果てたある日の事。
徹夜で続いた特訓の朝方。
イライザは突然高らかに「スペインの雨」を見事に歌い出すのでした。
この映画中盤にある、このシーンはとても感動的です。


「マイ・フェア・レディ」には「スペインの雨」以外にも、ヒギンズとイライザの「猛特訓」シーンが出てきます。
いずれも滑稽で、魅力的に二人の人物が描かれていきます。
以下に、その5つの練習シーンを挙げておきます。

1)母音「A,E,I,O,U.」の正確で美しい発音練習。
二台の音声記録器を並べ、テープに録音された正しい発音とイライザの訛った発音を、何度も何度も繰り返し比較させる。
最初の一週間は階段下の物置部屋に閉じ込められ、毎日こればかりやらされます。
しまいには「いつか殺してやる!ヒギンズ!」と彼女は罵る事になるのでした。

2)「The rain in Spain stays mainly in the plain」。
「スペインの雨は主に広野に降る」。
「ai」を「ei」に正しく発音。
二人のドタバタ猛特訓が、ひとつの山場を乗り越えた時に唄います。
その時の「ヒギンズ教授」「イライザ」「ピッカリング大佐」、三人三様のはしゃぎっぷりが、私は大好きなのであります。
当時の劇評論家「ウィルコット・ギブス」が、「ミュージカル史上最も輝かしく、成功を収めたミュージカル・ナンバー」と言うのも、素直に賛同するのであります。

3)「In Hartford,Hereford and Hampshire...Hurricanes Hardly ever Happen」。
「ハートフォード、ヘレフォード、ハンプシャーではハリケーンはめったに起こらない」。
「H」を正しく発音。
アルコール・ランプから上る炎を目の前に、正確な「H」の発音が出来た時だけ、その炎が乱れる仕組みになっています。
ハートフォードはロンドンの北、ヘレフォードはロンドンの西、ハンプシャーはロンドンの南西、いずれもイングランドの州です。
確かにいずれもハリケーンなんて来そうにありません。
後に、社交界でデビュー初戦として「アスコット競馬場」に連れて行かれるイライザですが、その際、ヒギンズに、「くれぐれも話題は天気と健康の話だけだぞ」と念を押されるのが、とても可笑しいのであります。

4)「How kind of you to let me come」。
「お招き恐れ入ります」。
鉄琴を鳴らし、正しいアクセントとイントネーションの練習。
イライザは、正しい発声練習と共に、上流階級の常套句やマナーも次第に学んでいくのでした。

5)口の中に6個のビー玉を入れ、難しい言い回しの詩を読ませる。
思わず一個呑み込んでしまい慌てるイライザに、「安心しろ。ビー玉はまだある」と代わりの一個を口に押し込むヒギンズ。
唖然としてキョトンと目を丸くするイライザと、意に介せず飄々としているヒギンズの二人の対比が、ここでも魅力たっぷりに描かれていました。


The rain in Spain stays mainly in the plain.

私はスペインの平野に、雨が良く降るかどうかは分かりません。
いや反対に、「スペインにはあまり雨が降らない」と言うイメージがあります。
映画「アンダルシアの犬(1929)」や伝統文化の「闘牛」などから、「いつも太陽がギラギラと照り付けて、大地は暑く乾燥している」と言う絵が思い浮かぶのです。
また、スペインは「ワインの名産地」という事実も、それを裏付けています。
ご承知の通り、葡萄は「暑く雨の降らない乾燥した土地」に良く育つのです。
三つ目に地理的な理由もあります。
スペインの国土が持つ「地中海性気候」は、「夏は日差しが強くて、乾燥している」のが特徴とされているのです。

総合すると、スペインにはあまり雨が降らない様子なのでした。

「スペインの雨は主に広野に降る」は、それを踏まえた上での「洒落」なのかも知れません。
また、地図で見るスペインはほとんど「山地」です。
これはつまり、「スペインの雨は主に広野に降る」=「広野などないスペインには、雨など降らないのだ」と言っているのかも知れません。
ひょっとすると、これは昔からある有名な「自虐フレーズ」なのかしらん?



さてさて。

「映画」「雨」と言えば、「マイ・フェア・レディ」の前に、同じミュージカルで超有名な作品がありました。

「雨に唄えば(1952)」です。

「ジーン・ケリー」が雨降る夜の町中で、水溜まりを盛大に跳ね上げて「めちゃくちゃ」踊り唄うシーンは、いつ観ても素晴らしいのであります。
この映画が凄いのは、かなり広い町中のこの雨のシーンが、「スタジオでの室内撮影であった」事であります。
さすが、時間と金と練りに練った脚本があった「50年代ハリウッド黄金時代の映画」なのであります。


「映画」「雨」「めちゃくちゃ」で思い出すのは、黒澤明の「七人の侍(1954)」です。
有名な最後の土砂降りの中での決戦シーンです。
激しい雨の中を馬も人も思いっきり疾走し、足下の泥濘を盛大に撒き散らしある時は頭から突っ込み、吐く息は刺す様に厳しく白く荒く、射った弓矢は素晴らしい水煙の軌跡を残し・・・。
この場面は日本映画のひとつの頂点だと思います。

黒澤映画の雨は皆ど派手で迫力があり、男らしく格好良く勇ましいのであります。
映画の雨は、散水車を使い太いホースを空に向け、一気に放水して撮影するのですが、黒澤映画では「この場面、一体何台の放水車を使ったのだろう?」と思ってしまいます。
それほど盛大に画面一杯、隅から隅まで「ドシャドシャ」と降っているのです。

フィルムには映りにくい「雨」を、しっかり撮すため「墨汁を混ぜて降らせた」のは、この「七人の侍」じゃなかったかしら?

話ちょっと違いますが、アニメーション映画で、絵で描いた(絵の具で描いた)雨じゃなく、リアルな雨を目差し「セル傷による雨」を試してみたのは、昔の東映動画「太陽の王子 ホルスの大冒険(1968)」の事でした。
最初に見た時、そのリアルさに吃驚したモノです。


「黒澤の雨」が「ドシャドシャ」と降るのに対し、いつも「シトシト」と降っているのが「アンドレイ・タルコフスキーの雨」であります。
身体に纏いつく様に、世界を蝕む様に降るのであります。

彼の映画にはその雨が上がった後の「水溜まり」もよく登場します。
その水面にはいつも何かを、例えば「空」を「人」を「犬」を映しています。
それは「現世」を映す「鏡」であり、映る向こう側は「来世」であります。
「タルコフスキーの水溜まり」とは、現世と来世、実像と虚像を分け隔てている「境界」なのでありましょう。

一時期、この監督の影響を受けていたのが、アニメ監督の「押井守」でした。
彼の出世作「ビューティフル・ドリーマー(1984)」での「水溜まり」や「シトシト降る雨」に、その影響を強く感じる事が出来ます。

タルコフスキーは「雨」も「水溜まり」も、いや、万物流転し続ける「水」自体が好きなのでしょう。
その描写はある時は優しく、ある時には禍々しく、まるで「命」を宿しているかの様です。
その極北が、「海自体が知的生命体であった」と言う、彼のSF映画「惑星ソラリス(1972)」なのだと思います。


「黒澤」や「タルコフスキー」と違い「雨」を感じないのが、「スタンリー・キューブリック」であります。
彼の作風はいつも「無味乾燥」し「冷徹」です。
もちろん、そこが「キューブリック印」なのであります。
そう言えば、「水道水を憎む」狂った将軍が彼の「博士の異常な愛情(1964)」に登場していましたっけ。



「映画」の「雨」に関して書いたので、最後にひとつ、「雨」で思い出す事を書いておきます。


大昔のNHKの傑作人形劇「ひょっこりひょうたん島(1964〜69)」は、(これまた)私の大好きな作品です。

この人形劇はミュージカル仕立てになっていて、その挿入歌の中には、「博士くん」が唄う「もしもボクに翼があったら」や、「トラヒゲ」が唄う「プアボーイ」、子供たちが唄う「勉強なさい」、「海賊たち」が唄う「バビロンまでは何センチ?」等々、数々の「名曲」があるのですが、その中でも一番印象的なのが、「雨はどこに降る?」なのであります。

ある時、ひょうたん山に流れる川が枯渇してしまいます。
新しい水源を求め、山中を彷徨い歩く子供たち。
疲労困憊した子供たちに、「博士くん」がこの歌を唄ってみんなを励ますのでした。

「♪雨はどこに降る?
雨は海に降る
野原に降る 田圃に降る
丘に降る 山に降る 
雨は山に降る!
山に降った雨は どうなるだろう?
麓に流れる川になる
(そう!)
頂上を境にして
右側に降った雨は 右側に流れる
左側に降った雨は 左側に流れる
口に入ったアメは 喉の奥へ溶ける
(ペケ!)
だから ひとつの山には
二つ以上の 川が生まれる♪」

実に理路整然と判り易く、当時小さな子供だった私に「地形の成因」を教えてくれた歌でした。
作詞は「山元護久、井上ひさし」、作曲はあの「宇野誠一郎」であります。
ひょうたん島の挿入歌にはどれにも公式のタイトルがなく、この歌は「雨はどこに降る?」とも「分水嶺の歌」とも呼ばれています。
なるほど、です。

「ひょっこりひょうたん島」に関しては、今度改めて一つのエッセイに書きたいと思っていますので、この話は「いずれまた」なのであります。
いや、それより前に(これも私が大々好きな)作曲家「宇野誠一郎」の事を書かなければなりませんね。

うん。そうだそうだ。




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