SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.181
「サンティアゴ17、一九九五」
について

(2019年11月16日)


大昔、私は仕事で二週間、南米のチリに行っていた事がありました(カツカレーの逡巡)。


その年の正月気分がまだ抜け切らない「1月6日」に成田空港を飛び発ち、10時間かけてまずはロサンゼルスに到着しました。
今でもそうなのですが、日本からチリに行くには一端ここを経由しなくてはならないのです。

その日はロス空港に面したホテルで一泊。
翌日、再び飛行機に乗り、チリへと向かうのです。
朝起きてホテルの部屋のカーテンを引いて私はビックリしました。
もの凄い雨が降っていたのです。
さっそくテレビを点けてみると、台風(ハリケーン)が近づいていたのです。

今回の旅行は会社の先輩との「二人仕事旅」でしたが、その「先輩Y」は有名な「雨男」である事をすっかり忘れていました。
私は次のチリに向かう飛行機が飛ぶかどうか心配で、
「Yさん、雨、スゴいんですけど」と言うと、Yさんは笑いながら嬉しそうに「ね〜。降ってるね〜」と応えるのでした。

私の経験則によれば「雨男」には、その自覚がないのです。
自覚がないどころか、雨が降っている事に喜びを感じている様子なのです。
だからこそ「雨男」なのかも知れませんけども。

結局、激しい雨の中、午後、飛行機はなんとかロス空港を飛び立ったのでした。


ロスからチリに向かう途中、荒野の寂しそうな空港(後で判ったのですが、ペルーのリマ国際空港)に立ち寄りました。

真夜中の3時過ぎ、機内の乗客たちが全員 飛行機から降りてしまい、残されたのは私と「先輩Y」の日本人のみ。
二人は「あれあれ?どうしたら良いの?」と狼狽えるしかありませんでした。
結局、彼らは「経由地」であるペルーのリマ空港で「土産物」を買いに行ったのでした。もちろん、最初から「ペルー」が目的地であった人はそこで降りたのでしょう。
1時間近く、機内に取り残された日本人二人。

ちなみに、チリへ向かう飛行機に乗る前に私が必死に暗記していたスペイン語(チリの公用語)は、「ウイスキ、コン、イエーロ」(whisky con hielo)」でした。
「氷とウィスキー」つまり「オン・ザ・ロック」。
もちろん機内でスチュワーデスさんに頼むためです。

こうしてロスから「14時間」かけて、チリの国際空港に到着したのでした。
日本からは都合まるまる「24時間」、飛行機に乗っていた計算になります。
ロスを出た時は大雨でしたが、チリの「サンティアゴ空港」に到着した時には、美しい朝日が出迎えてくれたのでした。


宿泊は「Hotel Nippon」という日本人旅行者が多いホテルでした。
もちろん「日本人旅行者が多い」だけで「日本人専用」というワケではありません。

それでも一階ロビーには大きなテレビとソファ、日本の新聞が数紙(外国で発行された日本語新聞も)置かれ、「日本から地球の真反対のチリ」に訪れた日本人にとっては、とても心地良く安心出来るホテルなのでした。

会社の先輩との「仕事旅」とは言え、長期滞在ゆえ部屋は別々、毎日仕事に出掛ける朝早く時間を決め、一階ロビーで落ち合ってから仕事へ出掛けていたのです。


最初の数日間は「サンティアゴ」と「バルパライソ」で仕事をしました。
「パルパライソ」は、サンティアゴの北西120キロのところにある「天国の谷」という意味で名付けられた街です。

美しい景観の港町で、世界遺産にも登録され、温暖で天候にも恵まれ、一年を通じて「300日は晴れている」という所なのです。
しかし、私たちが訪れた時には、いつも雨が降っていたのでした。
さすが「雨男のYさん」の力は、日本を遠く離れた「チリ」でも有効だったのです。


サンティアゴとバルパライソの仕事を一端終え、二人は「カウケネス」へと向かいました。
「カウケネス」は、サンティアゴから南西に370キロ離れた大きな盆地の農業地帯で、チリ・ワインの産地として有名な場所です。
サンティアゴから通うワケにも行かず、カウケネスに移動して現地に「三日間の宿」を取ったのでした。

なんやかんやでカウケネスでの仕事も終え、再びサンティアゴに戻りました。
ここでの仕事が少し残っていたのです。


再び泊まった「Hotel Nippon」は、もはや「懐かしい我が家」のように感じられました。
そして、チリでの仕事が全部終わろうというある日の朝の事です。


一階のロビーに降り、備え置きのコーヒーを飲み、Yさんを待ちながら新聞を読んでいた時です。
私は衝撃的な記事を目にしたのです。

1995年1月17日(平成7年)午前5時46分、兵庫県・淡路島北部を震源にした大きな地震が起きました。
阪神・淡路大震災です。

大慌てでロビーのテレビを点けました。
CNNから流れる映像は、至るところから黒煙を上げる神戸の街でした。



度肝を抜いた「阪神・淡路大震災」を報ずるチリで見た日本語新聞。
高速道路が横倒しになっている。
俺の生きている時代に、こんな事が起こるとは信じられなかった。



これもとても衝撃を受けた写真。
高速道路が半分崩れ、そこからバスが落ちそうになり、辛うじて止まっている写真。



この新聞はチリから日本に戻る時、買ってきたモノ。
「日刊サン」。
チリの発行ではなく、ロサンゼルスにある日本語新聞社の発行らしい。





海外の日本語新聞だから、「さあ!銃を撃ちに行こう!」とか、
「日本に里帰りするときにはぜひANAで!」なんて広告もある。



今では見る事もない「中尊寺ゆつこ」の漫画を使った広告。
1990年代に「オヤジギャル」で一世を風靡した彼女が
早逝したのがもう昔、2005年の事であった。



渡辺謙」が白血病で入院してて、「田代まさし」がまだマスメディアに出てて、
「安達祐実」が子供だった頃の事である。
俺も・・・歳取るワケだなあ・・・。

あれからもう「24年」も経っチまったんだなあ。
早いなあ。
信じられないなあ。

私が生きている間に起こった事件で一番衝撃を受けたのが、この1995年の「阪神・淡路大震災」と、2001年の「アメリカ同時多発テロ」なのでした。


本エッセイのタイトルは、大好きな小説家サリンジャーの「ハプワース16、一九二四」から取りました。




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