私は昔から本や漫画、テレビや映画などに登場する「名台詞」を日記に書き留めておくようにしていました。 と言うワケで、今回も昔の日記からそれらを抜き出してご紹介するのであります。 (今回は1998・99年頃の日記からの抜粋です) コメントはその当時のモノ。 ※印付きのコメントは、今の私の補足説明です。 またまた前後の脈略無くズラズラズラと並べてみました。 「不幸なことに、記憶力は衰える一方である。 (中略)今後、物忘れの度がさらに進むのは間違いない。今はまだズボンのファスナーを閉め忘れる程度ですんでいるが、そのうちファスナーを開け忘れるときがくる」 週刊文春連載、土屋賢二「棚から哲学」より。 ※土屋賢二は女子大の教授であり哲学者でありエッセイスト。 私は一時期、この人のエッセイが読みたくて週刊文春を買っていたのであります。 この人のレトリックが好きなのであります。 「作ったものに愛着を持ちすぎちゃ、からくり師も半人前」 角川文庫、栗田教行・林海象「ジパング」より。 ※「ジパング(ZIPANG)」は、1990年の林海象監督の「伝奇時代劇」であります。 これは、そのノベライズからのセリフ。 「ジパング」がなければ、「沙村広明」の「無限の住人」も生まれず、以降続々登場するこの手の「伝奇時代劇」「異色時代劇」「時代劇パンク」等も生まれにくかった様に思います。 また、上記のセリフは「モデラー」や「フルスクラッチャー」にも言える様な気がします。 「作ったものに愛着を持ちすぎちゃ、フルスクラッチャーも半人前」なのであります。 多分。 「人体は精密機械に似ているが、精密機械だったら致命的にこわれていただろう。 人体はどんな機械よりもはるかに精密である上、はるかに頑丈だ。 金属や強化プラスチックのような丈夫な素材を使っているわけでもないのに、無茶な使い方をしても簡単にはこわれない。 人体のように60年も70年も酷使して(設計者が考えられないような使い方をする人がいるのだ)こわれず動き続ける機械があるだろうか。 車なら、ガソリンに砂糖を混ぜるだけで動かなくなるのだ。 それに対して人体は、砂糖はもちろん、ギョーザ、スイカの種をはじめ、あらゆる動植物、さらには食品以外のもの(ラーメンの中に飛び込んだハエ、妻の料理、納豆など)を手当たりしだいに食べても死ぬようなことはない。 胃カメラをのむ人もいれば、釘や剣をのむ人もいるのだ。 食べ放題の店でケーキをむりやり詰め込んだ後、やせ薬をのむような無茶をしても人体は平気である。 死ぬのが不思議なほどだ」 週刊文春連載、土屋賢二「棚から哲学」より。 雨の日、駅でトイレに入ろうとして足をすべらして柱に激突した・・・から始まるエッセイの最後の文章である。 この「死ぬのが不思議」というフレーズに感じ、雑誌からページを切り取って日記に残して置こうと1年以上も放置してあったのを、本日ようやく記すのであった。 ※今回は1998年の私の日記からの抜粋ですから、このエッセイが週刊文春に載ったのは「1997年以前」という事になります。 「食っても平気なモノ」に「妻の料理」を上げるところが、週刊文春連載のエッセイらしいのであります。 と言うか、哲学者のエッセイっぽいのかな。 「カツカレーの話です。 というのは、つい先日、ごくありふれたレストランで、カツカレーでジョッキの生ビールを飲んでいる人を見てしまったからなんです。 その人は30歳ぐらいのがっしりしたタイプの男の人で、カレーにまみれたカツの一片をガシガシと食べては泡立つ生ビールをゴクゴク飲み、カレーに染まったゴハンを食べ、今度は福神漬を少しポリポリとやってまたグビーッとナマをあおっていたのです。 生ビールのツマミとしてカツと福神漬。 ゴハンとしてカレーライス。 意外性がありながら十分に納得がいき、しかも合理性がある。 カツカレーで生ビールをやっているその人を見て『あ、いいな』と思い、『あ、やられたな』と思い、なぜか『あ、ずるいな』と思ってしまったのです。 (中略)カツカレーというものは、見た人を、矢も盾もたまらなくするものがある。見てしまうと誰もが動揺する。こうしてはいられない、という気にさせる迫力がある。 その迫力の原因を考えてみると、それは、『立てかけられたカツ』にあるような気がします。 『立てかけられたカツ』がくせ者なのだ。 大抵の人はこれにやられる。 カツライスのカツは平に寝ている。カツ丼のカツもやっぱり寝ている。カツに限らず、ステーキでもハンバーグでも、コロッケでも畳でも、大抵のものは寝ているものなのだ。 ところがカツカレーのカツに限って、ゴハンに寄りかかって半身を起こしている。なんかこう、片ひじついて横になったカツが、オイデオイデをしているような錯覚にとらわれる。 この誘惑に大抵の人はやられるのだ。 (中略)カレーはカツのソースなのか、それともカツはカレーの具なのか、という問題もある。 カレーは、カツのソースにしては味が薄い。ウスターソースなどに比べて明らかに塩気が足りない。 ということは、カレーはカツのソースではないということになる」 週刊朝日、東海林さだお「あれも食いたい これも食いたい」より。 「カツカレーの誘惑」というエッセイである。 これも、1年ぐらい前に雑誌から切りとって置いたモノなのだけど、最近部屋の片隅から発見したので、日記に記すのである。 ※長い文章ですが、「カツカレー好き」の私としてはいちいち「納得」したので、ここに引用させて頂くのであります。 ちなみに私も「カツのソースとしてのカレー」よりも、「カレーの具としてのカツ」という設定のカツカレーが好きなのであります。 さらに言えば、「ジャガイモもタマネギもニンジンも、ちゃんと立派な肉まで入っているカレー」がかかった「カツカレー」が好きなのであります。 単体としても完成されている「カレーライス」に、さらに「カツ」が加わってこそ「ご馳走感」が出るのであります。 ま、「カツカレー」が「ご馳走」ってのも、ちょっと寂しい気がしますけど。 「攻撃し前進している時じゃなく、人は逃げて後退している時に転ぶのだ」 どっかに書いてあった名セリフ。 うーん、ナポレオンのセリフだったかなあ。 ※ナポレオンじゃなくても、歴戦の将軍たちなら誰でも言いそうなセリフなのであります。 金曜夕方ーー 「島田さんは今週末、楽しい予定でもあるの?」 「土日ですか?土曜日は『日曜の夜』の気分が一瞬頭をよぎり・・・、早くも損した気持ちになってます・・・。日曜日は起きた時点で何かを失ったような・・・、とりかえしのつかない思いをしてますね・・・。一応こんな予定ですが」 「そう・・・」 まんがライフオリジナル、高田三加「転がる石のように」より。 ※何事にもペシミスティックに考える人がいますが、そうでなくても、「日曜の夜」のあの喩え様のない「寂寥感」は誰しも感じるモノなのであります。 「我々は誰でも、自分が信じたい事を信じるモノなのである」 これは誰のセリフだったかな。 第2次大戦のドイツの宣伝相「ゲッベルス」のセリフだったかな。 ※これもゲッベルスじゃなくても、いろいろな人が使っているセリフでありましょう。 それは単に、このセリフが「普遍的な真実」だからであります。 「この者たち、邪悪につき」 イギリスに関するエッセイの小見出しにあったタイトル。 ※とても格好良いフレーズです。 もし私が小説やら漫画を書く時には、ぜひとも使ってみたいタイトルなのであります。 ま、書きませんけども。 「教会に近づけば近づくほど、神からは遠ざかる」 イギリスの格言。 ※「フルスクラッチ」も作業が進めば進むほど、「完成」からは遠ざかるのであります。 そおいうモノなのであります。 「敵の敵は味方である」 古くから戦略上の言い回し。 第2次世界大戦におけるドイツとソ連とイギリスの関係もこれであった。 ※「じゃ何かい、味方の味方は敵なワケ?」などと言うと、話はややこしくなるのであります。 「9月の初めは、秋でもなく、でも夏でもなくて、『夏をあきらめるための時期』としか思えない」 週刊文春、堀井憲一郎「ホリイのずんずん調査」より。 ※堀井憲一郎はいろいろな日常の些末な事を調査・統計・発表するフリーライターです。 昔の「今和次郎」みたいな人なのであります。 「帝都物語」にも出て来た人です。 それにしても、9月を「夏をあきらめるための時期」と看破したのはさすがです。そして、その「夏をあきらめるための季節」に私は生まれたのであります。 【補作追記20120912】お笑いの「バナナマン」の「日村勇紀」によれば、「梨を食べた時に夏は終わるのだ」と言う。 なるほど、なあ。 「これ、『定食』というと普通『定められし飯』なんだけどねー」 日本テレビ「ズームイン朝」、福澤朗。 どこか地方の「メニュー豊富な定食屋」のレポートを見ての発言。 ※「定められし飯」とは初めて聞きましたが、何だかとても格好良いフレーズなのであります。 バンパイア・ハンターのニンニク攻撃で殺されたと思っていた親父が実は生きていた、というエンディングで息子が、 「ニンニク、大丈夫だったんか?」 むっくり起きあがった親父、息子に向かってシラっと、 「何百年も吸血鬼やってみい。好き嫌いなんて無くなるわ」 NHK教育「てれびくん」より。 これは、「吸血鬼史上」に残るよーな名台詞ではないだろうか? ※「てれびくん」は現在でも少々名を変え続いている、NHK教育3チャンネルの名番組であります。 たまに観ると、今でも面白かったりするのであります。 頭の良いスタッフが作っているんだろうなぁ。 それにしても、「ニンニク」は吸血鬼の「好き嫌い」だったのかー。 単に。 人生を「生き抜いて来た」と、人生を「息抜いて来た」とは、語呂も似ているし、その意味合いも似ているのではないだろうか? などと今日フト思うのであった。 つまり、「人生を生き抜く」事は「人生を息を抜いて過ごす」事なのではないか? ※これは私が考えたフレーズです(多分)。 もっとも、私の場合は息を抜きすぎ、なのでありますが。 たは。 「僕の広告業の大先達であるニシクボさんの顔がビョーンとあらわれ、いつものポリシーをささやきかける。 『ものごとというのはな、ややこしくややこしくなるようにひっかきまわしていくんや。おさまりそうなもんでももういっぺんドガチャガしてややこしくするんや。そうすると面白くなってくる』。 うむ、これも一理あるな。ニシクボさんには金も借りているしな。よしっ、ややこしくしよう」 双葉社、中島らも「変!!」より。 「順調に進まない方が面白い」なんて、俺にはまだまだ「到達出来ない境地」だなぁ。 ※中島らもは(もう亡くなってしまったけども)好きな文章書きでありました。 彼の名を一番最初に知ったのは「プレイガイドジャーナル」に連載されていた「微笑家族(1983)」という「カネテツデリカフーズ提供」の漫画でありました。 「不況になると旧友と逢う機会が増えるモノだ」 ※今回の「今日の名台詞」は1998・99年の私の日記から引き出しているのですが、その時期、20年ぶりに会う旧友が何人もいたのでした。 その中の一人は現在、音信不通となり、もう一人は亡くなってしまったのであります。 …。 「かつて映画監督のジョン・フォードは、『事実と伝説のどちらかを選べといわれたら迷わず伝説をとった』と言った」 そおだよなー。事実よりは伝説の方が面白いよなー。 真実よりは虚構の方が面白いよなー。 現実よりは空想の方が面白いよなー。 本当よりは嘘の方が面白いよなー。 ※「夢こそまこと」と看破したのは江戸川乱歩でした。 また、「現実より空想の方が面白い」としたのが、私の大好きな映画「未来世紀ブラジル(1985)」でありました。 「海の神の名は不吉」 何かの文章で読んだセリフであるが、カッコ良い。 まるで「クトゥルー」みたいじゃないか。 ※「クトゥルー」とは、20世紀初頭の怪奇作家「H・P・ラヴクラフト」が紡ぎ出した「暗黒神話」の事であります。 一時期、この作家にハマっていた事がありました。 中でも「クトゥルフの呼び声」に登場する「太古に海底に沈んだ巨石都市ルルイエに棲む邪悪な旧支配者クトゥルー」に、その「海の神の名は不吉」のイメージが重なったのであります。 「ピラミッドを見るには、それに離れすぎても、近づきすぎてもいけない」 カントの「判断力批判」より。 あまり遠すぎては小さくなってしまうし、あまり接近しすぎると断片的な印象しか残らない。 ピラミッドの大きさを実感するための適切なポイントとでもいうものがあり、人間がかろうじて全体の印象をまとめる距離から対象をとらえなければならない。 ※前述の「作ったものに愛着を持ちすぎちゃ、からくり師も半人前」にも通じる言葉だと思います。 「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」 京極堂のセリフ。 京極夏彦「姑獲鳥の夏」より。 ※京極夏彦の「京極堂シリーズ」は、昭和20年代初頭を舞台に、「憑物落とし」と称して不可解な難事件を解決していく探偵小説であります。 主人公は古本屋の主で陰陽師の「中禅寺秋彦」、彼は古本屋の屋号から「京極堂」とも呼ばれていました。 以下、「京極堂シリーズ」からの名セリフが続きます。 「いいか関口。『主体と客体は完全に分離できない』、つまり完全な第三者というのはあり得ないのだ。君が関与することで、事件もまた変容する。だから、君は善意の第三者では既になくなっているのだ。いや、むしろ君は、今は当事者たらんとしている。探偵がいなければ、起きぬ事件もある。探偵などというものは、はなから当事者であるにもかかわらず、それに気づかぬ愚か者なのだ」 京極堂のセリフ。 京極夏彦「姑獲鳥の夏」より。 ※なんだか「シュレディンガーの猫」みたいではありませんか。 この「探偵の介入により事件は変容していく」という発想は、古くからいろいろな探偵小説に使われているのであります。 「生物は子供を生むために生きている訳だな。そしてその子供も子供を産むために産まれて来る訳だ。しかしそれじゃあ種を保存すること自体に意味があり、生きていること自体には意味がないことになる。生き物とはいったい何なんだ?」 「何でもないんだ。意味なんかありはしない。そういうものなんだよ。いや、そういうものだったのだよ」 関口巽と京極堂の会話。 京極夏彦「姑獲鳥の夏」より。 ※全ての事に意味はなく、その意味ない事に意味がある、このレトリック、私は昔から大好きなのであります。 「何をいっとる。儂は生憎お祓いや加持祈祷の類のことは一切解らんぞ。祈祷師にそんなこといわれる筋合いなどないわい。第一儂は幽霊だの崇りだのは信じてやせん!」 京極堂は足音も立てず老人の後ろに回り込むと、老人の薄くなった後頭部目がけて顔色ひとつ変えずにいった。 「僕だってそんなものは信じちゃあいませんよ。御老体」 「何だとお!」 久遠寺老人と京極堂の会話。 京極夏彦「姑獲鳥の夏」より。 ※陰陽師であり憑物落としを行う主人公「京極堂」は、「幽霊」も「祟り」も、皆「人間の脳が作り出したモノ」と論破します。 劇中一番不可思議な人物が、劇中一番リアリストであるという設定が、「京極堂シリーズ」の面白いところなのであります。 「未来とは未だ訪れぬ過去であり、過去とは訪れてしまった未来なのだから」 藤野牧朗のセリフ。 京極夏彦「姑獲鳥の夏」より。 ※過去と未来に関するこの手の言い回し、私は大好きなのであります。 「密室殺人だの人間消失だのなんて怪談仕立てにして喜ぶのは探偵小説家くらいだ。それは概ね小細工に失敗してたまたまそうなるんだ。出来損ないの犯罪なんだよ」 木場修太郎のセリフ。 京極夏彦「魍魎の匣」より。 ※木場修太郎は「京極堂シリーズ」の準レギュラーの刑事です。 彼が言及するまでもなく、多くの推理小説は「出来損ないの犯罪」を描いているのであります。 多くの犯罪が最終的には「解明」されるからであります。 「生きている彼の人生はそこで終わっている。そして死後の彼を造るのは私達です。ああ、私はあの世がないといっている訳ではありません。死後の世界は生きている者にしかないといっているのです」 京極堂のセリフ。 京極夏彦「狂骨の夢」より。 ※実に「なるほどなぁ」なのであります。 「しかしそれはまじないや呪術の類ではありませんか。そんなものには理論も真理もない」。 降旗は上目使いに京極堂を見た。京極堂は目を細めてその視線を搦(カラ)め捕った。 「理論的でなければ真理に到達できないというのおかしな話だし、はたまたまじないや呪術の類が論理的でないというのも間違った考えですよ。筋道が違うだけです。途中の式が違うだけで目指すものは皆一緒です。構造的には大差ありません」 降旗弘と京極堂の会話。 京極夏彦「狂骨の夢」より。 ※これも実に「なるほどなぁ」なのであります。 「京極堂のいう第3の衝撃とは『科学が破壊した人類の自己愛』の3番目の事例のことである。 1番目は『コペルニクスの地動説』。 2番目は『ダーウィンの進化論』。 そして3番目は『フロイトの精神分析』である。 人類は地動説によって宇宙の中心という玉座を失い、進化論によって神の子の血統を絶たれ、精神分析によって自己の完全支配という幻想も放棄した。 これはフロイト自身が『精神分析の難解さのひとつの原因に就いて』という著作の中で表したことでもある」 京極夏彦「狂骨の夢」より。 ※16世紀から19世紀までの科学者たちは皆、「人間は別に偉くないんだよー」と唱え証明してきた人たちでありました。 「口封じーーか?しかし、それは何だか現実味がないな菅原君。活劇映画じゃないんだから、そんな悪の秘密結社みたいな寺があるか?」 「秘密結社みたいな温泉旅館よりはありそうだと思いますがな」 菅原刑事と山下警部補の会話。 京極夏彦「鉄鼠の檻」より。 ※ああ、行ってみたい! 「秘密結社」のような「温泉旅館」! 「白魔術とは要するに原理原則が詳(ツマビ)やかになっている魔術で、黒魔術とはその原理原則が暗箱(ブラックボックス)に入っている魔術のことと考えればいい」 京極堂のセリフ。 京極夏彦「絡新婦の理」より。 ※従来のファンタジーやRPG(ロール・プレイング・ゲーム)の世界では、「白魔法は防御系、治癒系」であり「黒魔法は攻撃系、破壊系」とされています。 「白魔法は安心な魔法」「黒魔法は危険な魔法」なのです。 ここでは「仕組みが解っているか」「仕組みが解らないか」に区分されているのが、「なるほどなぁ」なのであります。 「過剰欠損変形と、身体の異常を見世物にするのは差別的だと云えばそうなんだけれど」 京極夏彦「塗仏の宴 宴の始末」より。 ※怪物の定義として「過剰」「欠損」「変形」を上げたのは、18世紀のフランスの博物学者「ビュフォン」でありました。 これに関しては前にエッセイを書きましたので(〈過剰と欠如と転倒〉について)興味がある方は読んでいただけると、これ幸いなのであります。 以上、「京極堂シリーズ」から抜き出してみました。 ちなみに本当に蛇足ですが、私の好きな「京極堂シリーズ」は、 「魍魎の匣>絡新婦の理>鉄鼠の檻」なのであります。 「パソコンは止まれば止まるほど止まりたくなる」 週刊アスキー。 ※パソコンは結局「止まる」のであります。 よく「鉄の塊の飛行機が空を飛ぶのが不思議だ」と言う人がいますが、私にとっては「パソコンがちゃんと動いている」方が不思議なのであります。 「必ずしも経験がプラスになるとは思っていません。むしろマイナスになる事も多い。失敗した記憶の方が強く残りますから。 そうなると、ここぞ、というときに踏み込みが弱くなってしまうんですよ」 羽生義治。時として経験はマイナスになる。 ※羽生義治は将棋棋士。 上は将棋の試合に関してのセリフですが、人生に関しても同様な事が言えるのかも知れません。 もっとも、「失敗した時の記憶」がまったく残らない困った人も大勢いますけども。 「どうも遺伝子組み換え食物は敬遠されるのう」 「は、博士!!生ガキやコンニャクにアイドルの遺伝子を組み込んで『おもちゃ』として売りましょう!」 (新技術の普及は、下半身から・・・) 宝島、「なんきん」より。 ※「なんきん」は「漫画家+イラストレータ」。 可愛くキッチュな画風と、エロ・グロ・ナンセンスな作風は、一時期私のお気に入りなのでした。 「新技術の普及はエロから」というのも、実に納得出来るのであります。 とりあえず今回はここまで。 昔の日記からの抜粋なので、記述間違いや出典間違いがあるかも知れません。 その場合は、間違いを教えていただければ、これ幸いなのであります。 |
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