SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.157
「継ぎ接ぎ少女の系譜」
について

(2015年3月14日)

※今回のエッセイは少し「禍々しい」表現が出て来ますので、その類いが苦手な方は本エッセイは「スルー」して下さい。

私の好きな「継ぎ接ぎ少女」の事を書きます。

「継ぎ接ぎ」は「つぎはぎ」と読みます。
文字通り、「身体パーツを寄せ集めて縫合し造られた少女」を指しています。
まずは映画の中の「継ぎ接ぎ少女」について。



「フランケンシュタインの花嫁(1935)」は大ヒットした怪奇映画「フランケンシュタイン(1931)」の続編です。
前作同様、監督は「ジェイムズ・ホエール(1889〜1957)」、怪物を演じたのは「ボリス・カーロフ(1887〜1969)」。

前作で村人たちの焼き討ちに遭い、風車小屋で焼死したと思われていた「フランケンシュタイン男爵」と「怪物」が実は生きていた、という「柳の下の泥鰌」映画なのでした。

本作では、前作の「フランケンシュタイン男爵」と同様、異端の科学者「プレトリアス博士」が登場します。
彼は男爵をそそのかし、怪物の「女性版」を造ろうとするのです。
それが「フランケンシュタイン(の怪物)の花嫁」なのです。
(※正確には違いますが、この「人造人間」を便宜上「女フランケンシュタイン」と呼ぶ事にします)

面白いのは、映画の最初に原作者「メアリー・シェリー(1797〜1851)」が出てくるのですが、その役を演じた女優が後半では「女フランケンシュタイン」を再び演じている事であります。

首元には「人造人間」の証、死体を継ぎ接ぎして造られた「縫い跡」があるのですが、残念な事に身体はミイラのように包帯で覆われているだけなのでした。
本作の「女フランケンシュタイン」の一番の特長は、有名な「チリチリ・ヘア」でしょうか。
まるで爆発したように斜め後方に伸びる「チリチリ・ヘア」。髪の両脇には「白いメッシュ」が入っています。

映画公開当時(1935)は「斬新!」だったかも知れませんが、私が子供の頃観た時には、もはや「変!」なだけでした。
私は「男フランケンシュタイン」の持つ迫力のある「怪物怪物」した造形を、「女フランケンシュタイン」にも期待していたのです。

物語は「女フランケンシュタイン」を造り「男フランケンシュタイン」と結婚させ、二人の間に子供を作らせる。
そうして「新人類」を誕生させようとするマッド・サイエンティストの「歪んだ夢」を描いているのでした。
「生めよ!増やせよ!地上のあらゆる場所に、人類を創れ!」と狂った科学者「プレトリアス」は叫ぶのです。

一説によれば、監督「ジェイムズ・ホエール」は「同性愛者」で、「異端として迫害される者の哀しみ」を映画「フランケンシュタイン」「フランケンシュタインの花嫁」に投影していたと言います。

結局、「女フランケンシュタイン」は醜い「男フランケンシュタイン」を毛嫌いし、失望のまま「男フランケンシュタイン」は彼女と博士もろとも研究所を破壊、自ら死んでいくのでした。



「悪魔のはらわた(1973)」は別名「アンディ・ウォーホルのフランケンシュタイン」と呼ばれています。
「アンディ・ウォーホル(1928〜1987)の」と謳っていますが、実際は弟子「ポール・モリセイ(1938〜)」の作品です。
「フランケンシュタイン」からインスパイアされた3D映画、しかもコメディ・ポルノ映画なのでした。

「コメディ・ポルノ映画」ですが、そう呼びたくない多くのカルト映画ファンたちは、「悪趣味映画の傑作」などと持ち上げています。
が、私に言わせれば単なる「コメディ・ポルノ映画」です。それ以外の何者でもありません。
しかも、笑えない下手な「コメディ・ポルノ映画」なのです。
お話はこうです。

「フランケン男爵」は弟子「オットー」と共に、森の外れの古城に住んでいました。
そこで男爵は死体から造る「人造人間」の研究に明け暮れていたのです。
一緒に住む男爵の妻は「実の姉」で、近親相姦によって「エリック」「マリカ」という美少年少女の子供も作っています。

「女フランケンシュタイン」を造った男爵は、次に村の青年を絞殺し、斬り取った頭部を使用し「男フランケンシュタイン」を造ろうとします。
男爵の目的は二体の「人造人間」を交接させ、新しい人類を作り出そうとしていたのです。
本映画は先の「フランケンシュタインの花嫁」の換骨奪胎でもあります。

「男爵」を演じているのは「ウド・ギア」。
端正な顔立ちながらも「どこか異常」を感じさせる怪優です。
本作でも、「女フランケンシュタイン」を嬉々として屍姦しています。

「悪魔のはらわた」はオープニング・タイトルから悪趣味全開です。
巣を張るおぞましい蜘蛛のシーンが永遠と続くのです。
悪趣味なのは良いのですが、映像のそこかしこに「低予算」なのが隠そうともせず、見て取れるのでした。
脚本もルーズで出来の悪いモノ。この脚本の悪さは最初から最後まで一貫しています。

映画の最後は、登場人物が皆「陳腐に」死んでしまうのでした。

「女フランケンシュタイン」は弟子「オットー」に傷口から内蔵を引っ張り出されて死亡。
「オットー」は「男爵」に絞殺されて死亡。
男爵の妻は「男フランケンシュタイン」と交わっている所を羽交い締めされて死亡。
三人の死体の先には「フランケン男爵」が「男フランケンシュタイン」に槍で貫かれ、腹から腸を飛び出したまま死亡するのです。
その「男フランケンシュタイン」も、村の青年に殺されてしまいます。

そして最後に残った青年は、男爵夫婦の子供「エリック」と「マリカ」に付け狙われて・・・、物語は終わるのでした。
ああ、頭痛くなってきた。

監督の「ポール・モリセイ」は、「計画して撮った映画は駄目だ。即興で撮らないと」と語っていますが、本当にそうして撮ったに違いありません。
こんな映画を観る度に「やっぱ映画は計画して撮らないと駄目だなあ」と戒めてくれるのでした。

「フランケンシュタインの花嫁」「悪魔のはらわた」、両映画に共通しているのは、製作当時、新人の美人女優(前者はエルザ・ランチェスター、後者はダリラ・ディ・ラッツァーロ)が「女フランケンシュタイン」を演じている事であります。
「怪物にするなら美女でなくてはならない」のです。



「継ぎ接ぎ少女」で真っ先に思い浮かべるのは、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス(1993)」の「サリー」でした。



原案・原作は「ティム・バートン(1958〜)」。
映画が彼の特長満載なので監督だと思われがちですが、監督は「ヘンリー・セリック(1952〜)」が正解です。

ヘンリー・セリックは元ディズニーのアニメーターで、ディズニー時代、ティム・バートンと知り合いになったのです。
本作「ナイトメア」以外にも、「ジャイアント・ピーチ(1996)」「コララインとボタンの魔女(2010)」等、私が好きな「立体アニメーション映画」を幾つか作っています。

「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」のお話は、こうです。

昔々、かなり大昔。私たちが夢で見たような何処かの場所。
「ホリディ・ワールド」の中、「ハロウィン・タウン」が舞台です。
主人公は細身の身体をタキシードで包み、ドクロの頭部を持つカボチャ王の「ジャック」でした。

彼はひょんな事から、隣町「クリスマス・タウン」の存在を知り、そこの「サンディ・クローズ(サンタクロース)」の代わりに自分がクリスマスにみんなにプレゼントする事を夢想します。
みんなが喜び、感謝される事を想い、胸躍ったのでした。

「ジャック」を恋い慕っているのが、「継ぎ接ぎ少女」の「サリー」です。
彼女は町外れに住むマッド・サイエンティスト「フィンケルスタイン博士」に造られた、哀しい人造人間でした。

「ジャック」の計画を阻むのが邪悪で凶悪な「ブギーマン」でした。
さて、「ジャック」の望みは叶うのか?「サリー」の儚い恋は実るのか?

私は一時期、この「継ぎ接ぎ少女」の「サリー」にハマリ、小さなフィギュアから大きな縫いぐるみまで、たくさんのグッズを買い漁っていました。
元々「モンスター」は好きで、中でも「哀しいモンスター」しかも「ワケあり少女の怪物」に、私は大変弱いのです。
また、本作の「サリー」は奇妙な怪物の中で唯一「肉感的」に、二の腕や脹ら脛等、造形されているのでした。





「バットマン・リターンズ(1989)」も私の大好きな映画でした。

前作「バットマン(1989)」は、バットマンと「ジョーカー」の闘いをティム・バートン世界で色付けした物語でした。
その続編「バットマン・リターンズ」では、さらにパワーアップ。
「バットマン」VS「ペンギン」VS「キャットウーマン」という、「異形奇形さん大集合!」のバトルロイヤルなのです。

悪と犯罪の都市「ゴッサム・シティ」。
実業家「マックス・シュレック」は私欲のため、街のエネルギー源を所有しようとしていました。
時同じくして出現する奇形の怪人「ペンギン」。
シュレックの秘書であり、彼に裏切られ異形化した「キャットウーマン」。
こうして、異形のヒーロー「バットマン」、異形の悪者「ペンギン」、異形の復讐者「キャットウーマン」、この三つ巴の闘いが始まるのでした。

私がティム・バートンの「バットマン」が好きなのは、今まで観た単なる「正義のヒーロー物語」ではなく、登場する人物が皆、心や身体に傷を持つ「異形」「奇形」ばかりという極端な世界にあるのでした。
中でも、本作「キャットウーマン」は秀逸だと思います。

ある夜偶然、上司の秘密を知りビルから突き落とされる「セリーナ・カイル」。
地上に激しく激突し、彼女は当然絶命します。
そこに彼女の黒猫「ミス・キティー」が暗闇から飛び出してきます。
続いて集まってくる街の野良猫たち。
猫たちに囲まれ体中を舐められ、絶命したセリーナが突然目を覚まします。生き返ったのでした。
しかし、甦った彼女はもはや「異形」となっていたのでした。

自宅マンションに戻り、狂ったように部屋の中を破壊。
クローゼットから「レザージャケット」を引っ張り出し、切り刻み、それを裁縫し始めます。
それは、異形と化した自分の新しい姿を作るためでした。
こうして、継ぎ接ぎのレザー・コスチュームを身に纏った「キャットウーマン」が誕生したのです。

私が特に好きな場面が、壁のネオン「HELLO THERE(こんにちわ)」の二文字を壊し、「HELL HERE(地獄にようこそ)」とするシーンです。


ティム・バートンの世界が、色濃く怪奇映画「フランケンシュタイン」のオマージュに溢れている事は明かです。

監督二作目の短編実写「フランケンウィニー(1984)」は、突然の交通事故で亡くなったペットを「継ぎ接ぎ」して復活させる物語でした。
これは2012年に「立体アニメーション」でリメイクもされています。

「シザーハンズ(1990)」の「人造人間」も、「マーズ・アタック!(1996)」で「サラ・ジェシカ・パーカー」の頭にチワワの身体を繋げたのも、みんな「フランケンシュタイン」のオマージュなのでしょう。
ティム・バートンは「フランケンシュタイン」に魅せられた作家なのです。



映画以外の私の好きな「継ぎ接ぎ少女」をいつくか挙げておきます。


まずは小説。「京極夏彦」の「京極堂シリーズ」です。
短編を除くと、長編は「9作」。
すなわち、「姑獲鳥の夏(1994)」「魍魎の匣(1995)」「狂骨の夢(1995)」「鉄鼠の檻(1996)」「絡新婦の理(1996)」「塗仏の宴 宴の支度(1998)」「塗仏の宴 宴の始末(1998)」「陰摩羅鬼の瑕(2003)」「邪魅の雫(2006)」であります。
中でも「魍魎の匣(1995)」は私の大好きなミステリー小説なのでした。

まず最初に「謎」があり「殺人事件」が起こり、さらに「怪奇な出来事」が続き「次の殺人事件」が起こる。
そして「探偵」が登場し、一見謎だらけに見えた事件が「論理的に説明」される。
そして最後に一抹の「幻想」を残しながら。
ここには私が愛するミステリーの要素が詰まっています。

舞台は戦後間もない東京です。
中野で古本屋「京極堂」を営む「芥川龍之介を何百倍も不機嫌にした様な男」、「中禅寺秋彦」が主人公です。
そして、起こる「連続バラバラ殺人事件」。
そこには猟奇殺人者「久保竣公」と、狂気の天才科学者「美馬坂幸四郎」が絡んでいました。

この小説、「弁当箱」みたいな厚い大長編なのですが、特に私が好きなのは最後なのでした。
これは江戸川乱歩の「押絵と旅する男(1929)」のオマージュなのでしょう。
こうです。

連続バラバラ殺人事件が解決した後。
汽車で旅する男は、大きな「桐の匣」を抱えています。
その匣の中には「四肢を切断」され、「生かされ続ける少女」が入っています。
男は時々匣を覗き込み、微笑みかけます。
そうすると匣の中の少女も微笑み返し、こう応えるのでした。
「ほう」と。

この猟奇的で耽美的、衝撃的なラストシーンは、一時期、漫画家「桜玉吉」がよくパロっていたモノです。



もう二人、私の好きな「継ぎ接ぎ少女」を挙げさせて下さい。


一人は「攻殻機動隊」「草薙素子」です。

21世紀、全てが「電脳化」され高度に複雑化したネット社会。
そこで特殊犯罪を取り締まる「公安9課」のリーダーが「草薙素子少佐」です。
原作は「士郎正宗」の漫画「攻殻機動隊(1989〜)」で、後に「押井守」が劇場アニメ「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊(1995)」を作っています。

少佐は脳と脊髄だけ「生身」で、それ以外は「義体化」されたサイボーグなのです。
漫画でもアニメでも、続編に登場する「少佐」は、以前とは「違う姿」で描かれています。
この世界では、「脳」だけ「草薙素子」なら身体が変わっても、それは「草薙素子」なのでした。



二人目は手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック(1973〜78、1979〜83)」「ピノコ」です。

とある資産家の娘の「畸形嚢腫」に過ぎなかった「瘤」の中から、天才医師「ブラック・ジャック」が「脳」「手」「足」「内臓」を取り出し、造られたのが「ピノコ」でした。
つまり、「ピノコ」は「人造人間」なのです。

「脳」「手」「足」「内臓」の「容器」は「合成繊維の皮膚」で出来ています。つまり、外観に「継ぎ接ぎ」はありません。
が、中身は立派な「継ぎ接ぎ少女」なのでした。
当然、彼女の名は「造られた人」の先達である「ピノキオ」から来ているのでした。



「魍魎の匣」の「匣少女」にしても、「攻殻機動隊」の「草薙素子」にしても、「ブラック・ジャック」の「ピノコ」にしても、「継ぎ接ぎ少女」というより「欠損少女」が正しいのかも知れません。
あるいは、「包帯少女」かな。
そうだとすれば、「新世紀エヴァンゲリオン(1995〜)」の「綾波レイ」や、イラストレータ「トレヴァー・ブラウン(1959〜)」が描く少女も加えた方が良いのかも知れません。

が、ま。
そこまで話を広げても詮無いか。




例えば、蜘蛛の巣状に割れた鏡。
それは二度と本来の姿を映し出す事はないでしょう。

あるいは、大きな水晶玉。
それが、ある日突然、木っ端みじんに砕け散ったとします。
その散らばった破片を一つ一つ集め、丁寧に丁寧に積み重ね、元の球体に戻したとします。
しかし、一見、元に戻ったよう見えても、破片の一つ一つの屈折率は微妙な食い違いを見せ、再び向こう側を綺麗に映す事はないのです。

「継ぎ接ぎ少女」は身体の壊れた女の子です。
「継ぎ接ぎ少女」は心の壊れた女の子です。
その砕け散った身体を継ぎ接し、元の姿に戻したとしても、
心の疵は、決して治癒らないのでしょう。

さて。
今回のエッセイ「継ぎ接ぎ少女の系譜」によって、
以前書いた「血塗れ美少女の系譜」「翼少女の系譜」と合わせ、
「○○少女の系譜 三部作」(とは思ってなかったでしょ?)、
これにて堂々の完成なのであります。
はい。



目次へ                               次のエッセイへ


トップページへ

メールはこちら ご意見、ご感想はこちらまで