蒼穹に高く舞うカモメの群。 今回は映画に見る「学園祭」、それについて考えてみるのであります。 大きく陥没した廃墟に湧き出した水が、まるで真夏の湖の様に煌めいている。 その上を水上バイクで無心に遊ぶ学生たち。 湖畔に佇む戦車の上には、双眼鏡で周囲を探索する男と、身体を灼く一人の美女の姿。 半壊し朽ち果てた校舎の時計塔が、針もないのに授業開始の時を告げ始める・・・。 ご存知、押井守の「ビューティフル・ドリーマー(1984)」です。 私の大好きな映画なのであります。 ※本エッセイは、ビューティフル・ドリーマーのストーリィが語られています。 本作には「うる星やつら2」というメインタイトルが付けられているものの、これは監督「押井守」がスポンサー・制作会社から「ゴーサイン」を貰うために利用した方便に過ぎず、その証拠に「うる星やつら」という「印籠」を手にした後の彼は、「うる星やつら」とはまったく関係ない物語を紡ぎ出していくのです。 この物語が大変素晴らしいのです。 学園祭準備のため連日連夜、学校に泊まり込んでいる「諸星あたる」たち一行は、すでに疲労のピークを越えていました。 深夜の給湯室で「ラム」と「三宅しのぶ」、そして保険医の「サクラ先生」の間で交わされる会話も、何処か投げ遣りです。 「ま、せいぜい頑張る事だな。残すところ今日一日。明日は学園祭の初日じゃからな」 そして翌日。 そこには昨日と変わらぬ「学園祭前日」が広がっていたのです。 再び繰り返されるあたる達の馬鹿騒ぎ。 「明日になれば」。 しかし、巨大な「浦島の亀」に乗った彼らには、同じ日が無限に繰り返されている事実に、自ら気づく事は出来なかったのです。 本映画には私の大好きなシーンが二つあります。 一つは「サクラ先生」とあたる達の担任「温泉マーク」が、名曲喫茶「Da Carpo」で密会する場面です。 「温泉マーク」は最初に世界の異常を感じた一人でした。 カメラワンカット360°パンで(という狙いで)、二人の会話を収めた長回しのシーンです。 あまりにも大好きなシーンですので、ちょっと長くなってしまいますが引用させて頂きます。 「しかし、妙な話じゃな。数日部屋を空けて久しぶりに戻ってみれば、中は青カビやらシメジもどきで廃墟も同然。ちょっとした浦島太郎じゃな。友引高校という名の竜宮城で、ドタバタ明け暮れて月日の経つのも夢の内。お主、亀でも助けたか?」 「実は近頃妙に気になっておるんですが。ほら、よくあるでしょう?初めての町を歩いていて、いつか見た様な光景に出会ったり、今自分がしている事を、いつかそのままそっくり繰り返していた様な気がしたり」 「デジャ・ビューってヤツじゃな。疲れた時に人間の脳が生み出す偽りの体験じゃ」 「私もそう思っておりました。疲れているんだと。だからそんな奇妙な考えに取り付かれるんだと。今日、あの部屋を見るまでは・・・」 「何の話じゃ?」 「さっき、校長が言っておりましたね。今日一日。明日は学園祭の初日だと。それと同じ様なセリフを以前にも聞いた様な」 「疲れておるのじゃ。疲れておるからその様な願望が有りもしない記憶が作り出すのじゃ。連日あの悪ガキどもの相手をしているのじゃから無理もないが、ま、それも今日で終わりじゃ。明日は学園祭の・・・、!?」 何かに気づき愕然とするサクラ。 「そう考え始めてみて初めて気がついたんですが、自分でも驚くぐらい記憶がはっきりせんのです。昨日の事も、その前日の事も、いや、うっかりすると数時間前の事も忘れている事があったり。何時何処で誰と会い何をしたのか。だいたい私が学校に泊まり込んで幾日経つんでしょうね?三日ですか?四日ですか?」 「さて。ドタバタしておったからのう」 「忘れてしまうほど前からですか?」 「お主。一体何を考えておる!はっきり言うてみい!」 「これはあくまで仮説でして。私の呆けた頭が生み出した夢想なら無論それに越した事がないんですが。私は、こう思っておるのです。昨日も一昨日も、いやそれ以前からずっとずっと以前から、気の遠くなるぐらい前から、私ら学園祭前日という同じ一日の同じドタバタを繰り返しておるんじゃなかろうかと。そして明日も!」 「何を馬鹿な!疲れておるのじゃ。疲れているから意識が混乱しているだけじゃ。今日一日ゆっくり休んで明日になれば」 「明日になればどうなるんです?本当に今日と違う明日が来ると言うんですか?今日と違う明日も思いだせんと言うのに!?」 「仮に!仮にお主の言う通りだとして。では何で周りの人間が騒ぎださんのじゃ?生徒たちがそれほど長く学校から戻らねば父兄が黙ってはおるまい!」 「同じ一日を繰り返しているのが友引高校だけじゃないとしたら?友引町全体が、いや世界全体が同じ一日を繰り返しているとしたら!?」 「世迷い言もいい加減にせいっ!!お主の言う事は完全に常軌を逸しておる!妄想じゃ、それはお主の妄想じゃ」 「サクラ先生・・・。私さっきから必死になって思い出そうとしているんですが。どうしても思い出せんのです。今日は一体、何月の何日でしょうね?教えて頂けますか!昨日から着のみ着のままとして、こんな物を着ておるとすれば、冬なのかも知れませんが。この汗は冷や汗なんですかねぇ?それとも、この陽気のせいなんでしょうか?それに・・・。さっきから聴こえておるこれは・・・。これも幻聴なんでしょうか・・・」 段々と激しくなる蝉の声が、二人を包み込んでいく。 もう一つの好きな場面は、「友引銀座通り」にある「面堂家友引地区パニックセンター」立喰い蕎麦屋「マッハ軒」、その地下に密かに格納されていた緊急脱出用垂直離着陸機「ハリアー」で、事の真相を知るシークエンスです。 地上から飛び立った彼らは、直径2キロの友引町全体が巨大な「亀の甲羅」に乗り銀河を漂っている、驚愕の光景を見るのでした。 この場面でかかる「星勝」の音楽も、低重音のコントラバスが鳴り響き、必要以上にドラマを盛り上げ、とても格好良いのであります。 今でこそ押井作品の音楽は「川井憲次」と決まっていますが、「ビューティフル・ドリーマー」の音楽は「星勝」で大正解だったと思います。 本来、押井守が狙っていなかったであろう「リリシズム」が、作品全体に醸し出されていたと思うのです。 「廃墟のカモメ」から始まり、この「繰り返しの夢」が破綻するまでの展開は本当に素晴らしく、故にそれ以降の映画後半部分、人々が友引町から姿を消して廃墟となってからが、私には「余計」に思えたほどなのであります。 ま、「余計」って事もありませんけども。 この「繰り返される時間」というネタは近年、映画、特に洋画に多く見受けられる様になりました。 すなわち、クリストファー・ノーランの「メメント(2000)」であり、 リチャード・ケリーの「ドニー・ダーコ(2001)」であり、 ローランド・ズゾ・リヒターの「リプレイ(2003)」であり、 エリック・ブレス、J・マッキー・グラバーの「バタフライ・エフェクト(2004)」等々であります。 その「時間がループする理由」は、SFであったり記憶錯誤であったりオカルトだったりといろいろなのですが、この手の映画が多く作られる背景としては、斬新で機知に富んだアイディアと緻密な構成を持つ脚本、それらを的確に撮り上げる演出と丁寧にまとめる編集力さえあれば、たとえ「低予算」であっても、かなり面白い作品になるという事にあると思います。 つまり、若手の才能のある脚本家・監督にとっては、実に美味しいネタなのであります。 また興行側から見ても、これらの複雑な構造を持つ映画には多くのファンとマニアが付き易く、劇場上映でもその後に発売されるDVDでもたくさんの「リピーター」を生み、とても嬉しい事なのです。 しかし、私が「ビューティフル・ドリーマー」を本当に素晴らしい作品だと思うのは、その繰り返される時間を「学園祭」そのものにするのではなく、「学園祭前日」に設定した事にあるのです。 決してやって来ない「学園祭初日」。 そして永遠と繰り返される「学園祭前日」。 制作当時、押井守はこう言っています。 「例えば、僕らが子供の頃味わった遠足の興奮ていうのは、遠足そのものよりも遠足前夜の興奮であったような気がするんですね」。 私はこれに全面的に賛同します。 遠足という学校行事だけでなく、私は昔から家族旅行も夏休みもクリスマスもお正月も、その前日に一番興奮したものです。 遠足当日になれば「それなりに楽しい遠足」があり、家族旅行当日には「それなりに楽しい家族旅行」が展開されるのでしょう。 しかし、「前日」にはそれ以上のものになる「無限の可能性」が込められている気がするのです。 その前日の「無限の可能性」が当日の「たった一つの現実」に収束してしまうのが、昔から私はとても寂しく詰まらなかったのです。 「明日を迎えたくない願い」。 「結論を出したくない思い」。 「完成されたくない気持ち」。 これを「いつまでも大人になりたくない」と欲する「ピーターパン・シンドローム」と同じだと看破する人もいるかも知れません。 それでも。 巡礼者たちは聖地を目前にして一番歓喜し、旅人は目的地に到着する手前で一番興奮し、学園祭は準備に奔走する日々が一番充実し、休日を迎える前の日が一番華やかで、プラモデルは完成する直前が一番楽しく(以前〈私がプラモデルを作るのが遅いワケ〉というエッセイにも書きましたが)、ジグゾーパズルは最後のワンピースになった瞬間が、これ一番嬉しいのであります。 また、「学園祭」には「祭」という名が付いているものの、その「学園祭前日」に感じる高揚感と「祭りの前日」に感じる高揚感とは、微妙に異なる様な気もします。 どちらかと言うと「学園祭前日」にあるのは、子供の頃に感じた、「台風がやって来る」あの時の高揚感に近いのではないでしょうか。 相米慎二の名作「台風クラブ(1985)」で「工藤夕貴」演ずる「高見理恵」が、教室の窓から空を見上げ「あーあ。台風来ないかな」と何気なく呟く冒頭の、あの気持ちに似ていると思うのです。 それは、そこに若者特有の「混沌」と「破壊」を心の底の何処かで望む「破滅衝動」が混じっているせいかも知れません。 話を「ビューティフル・ドリーマー」に戻します。 本映画の物語は「入れ子構造」になっています。 押井守が昔から好きだった、そして今でも作品内で繰り返す、偏愛する作術であります。 「繰り返される学園祭前日」という夢から覚めたあたる達を待っていたのは、「巨大な亀の背中に乗っている友引町」という別の夢の中でした。 さらに、映画後半で「夢から覚めたらまた夢だった」づくしを執拗に繰り返した後、ようやく最後に「あたる」は現実の「学園祭前日」に戻って来ます。 そこで「あたる」が「ラム」に真摯な態度を取っている事と、学校の時計搭に針が戻り正常な時を刻んでいる事から、一見「最後は本当に現実に戻って来たんだ」と思わせがちですが、前に「夢邪気」が「逃がさへんで〜!」と叫んでいた事を考えると、戻って来た「現実の学園祭前日」すらもまた、別の夢の中だったとも解釈できます。 映画の最後になって初めて「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のタイトルが現れ、続いてエンドロールが流れるという仕組みも、「この物語はループしている」事を暗示している様な気がするのです。 いや、そもそも、「繰り返される学園祭前日」も「巨大な亀の背中に乗っている友引町」も、劇中では「あたるを想うラムの夢+ラムに惚れた夢邪気の夢」と説明されていますが、本当に「ラムと夢邪気の夢」だったのでしょうか? 本作品の根底にあるのが「胡蝶の夢」である事を考えれば(もっとも押井作品の全ての創作基盤が『胡蝶の夢』なのですが)、映像で表現されている事を、額面通りには受け取らない方が良いのかも知れません。 当時、押井守にもう1本「うる星やつら」の映画を撮らせていたとしたら、没になった「ルパン三世」の企画の様な、「実はあたるもラムも最初から存在していなかった」なんて「身も蓋もない話」を演っていた様な気もします。 観たかった様な、観たくなかった様な。 映画で「学園祭」を描いた作品は数えるしかありません。 その理由は、実写映画でいえば、派手さのない地味目の作品になるしかない割には、丁寧に描こうとすると思いの他、セットの作り込みや多くのキャスト、多くのエキストラに予算が掛かり、「割に合わない」ためだと思います。 そしてアニメ映画でいえば、本「ビューティフル・ドリーマー」が一つの「金字塔」となっているため、これを越えるのが非常に難しいからだと思うのであります。 最後に本作品には「夢はいつでも最後は悪夢に変わる」という実に興味深いもう一つのテーマがあるのですが、それについてはいずれまた。 さて、ここで問題です。 これは以前、私の掲示板で、「ビューティフル・ドリーマー」好きの皆さんに出題した問題の「微修正版」であります。 解答は最後にあるリンク先を見て下さい。 1)冒頭に出てくる破壊された友引高校の時計搭は、何時何分を指している? 2)映画冒頭、一番最初に登場する人物は誰? 3)映画で描かれている友引高の学園祭は何年の事? 4)購買部は学際期間中『浜茶屋』として営業。 前夜祭大サービス、具の少ないラーメンが何割引? 5)中央階段は何時から何時まで登り専用? 6)女生徒たちは何時までに下校? 7)あたる達のクラスは二年何組? 8)そのあたるのクラスの出し物は? 9)オプションを外して軽減してあるとは言え、このレオパルト、空重量で何トン? 10)校長の長セリフ「ま、年に一度の学園祭ですから、生徒諸君の自主管理の尊重という意味合いからもですな、校長の私が今さら口を差し挟むと言うのも何なんでありまして。ま、しかしながら、かの○○も申しておりますように、」の○○って誰? 11)映画の中で描かれている、友引高の校舎は何階建て? 解答篇はこちらへ。 本エッセイは、次のページへ続きます。 もう一つの私の好きな「学園祭」を描いた映画の話であります。 |
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