SYU'S WORKSHOP
ESSAY VOL.160
「トムは真夜中の庭で」
について

(2015年6月13日)


私には子供の頃に読んで、その後もずっと忘れる事の出来ない面白かった小説が「5つ」あります。


一つ目は、以前紹介した「後藤竜二」の「天使で大地はいっぱいだ(1967)」です。
二つ目は、これも前に紹介した「エーリッヒ・ケストナー」の「飛ぶ教室(1933)」です。
三つ目は、「エリック・フランク・ラッセル」の「見えない生物バイトン(1943)」です。
これが私の「SF初体験」となったのは、以前エッセイにも書いたとおりです。
四つ目は、「斉藤惇夫」の「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間(
1972)」です。
後に「ガンバの冒険(1975)」としてTVアニメ化もされました。
私は本アニメが大好きで、そこから遡って原作を読んだのでした。

そして五つ目が、今回ご紹介する「フィリパ・ピアス(アン・フィリッパ・ピアス)」の「トムは真夜中の庭で(1958)」なのでした。


作者の「フィリパ・ピアス」は英国の女性作家で、「トムは真夜中の庭で(Tom's Midnight Garden)」は「児童文学」であると共に、「幻想文学」の傑作だと思っています。
「児童文学ファン」ならもちろん、「幻想文学ファン」でも必ず一度は聞いた事がある、もしくは読んだ事のある物語でしょう。

反対に言えば、「児童文学ファン」でも「幻想小説ファン」でもない方は読んだ事が無いかも知れません。
でも、「面白い物語が好き」な方は、一度は読んでおくべき小説だと思うのです。

お話はこうです。

※本エッセイでは、「トムは真夜中の庭で」のストーリィが語られています。



時代は1950年代の終わり頃。
主人公「トム」は8、9歳だろうか。

「トム・ロング」は風疹になった弟のピーターから隔離するため、母親の妹夫婦である「キットスン家」に数週間、強制的に預けられる事になった。
遠く離れたアパート住まいのキットスン夫婦には子供がいなく、明らかに退屈な日々が始まろうとしていた。
こうして、トムの楽しいはずの夏休みは終わりを告げた。

キットスン夫妻が住んでいるのは、大聖堂で有名な「イーリー」の町から南へ20数キロ下った「カースルフォド(ケンブリッジ)」の町であった。
近所でも一際目立つ大きな屋敷の中を、幾つかに区切って数世帯が暮らす「アパートの1つ」に住んでいた。
屋敷の三階には大家の「バーソロミュー婆さん」が一人で住んでいた。
偏屈な彼女は、ホールにある大時計のネジを巻く時だけ、足を引きずり階下に現れ、それ以外に見かける事はなかった。

一階ホールの、その古ぼけた柱時計は何十年も前から壁に固く釘付けされていた。
その脇には屋敷の裏庭に抜ける扉があった。
しかし、扉の向こうは単に舗装された「狭い空き地」で、住民のゴミ箱や修理中の古い車、ガラクタ等の工具箱が置かれただけの詰まらない場所だった。
少なくとも、トムが真夜中、調子の狂った古時計が有りもしない「13の時」を告げて、その扉を抜けるまでは。


真夜中、トムが見たその場所は、とても広い庭園だった。

月光の光に照らされ、芝生や綺麗な花が咲き乱れる歌壇があり、大きな温室やアスパラガス畑、イチゴ畑もあった。
広大な庭園には小路が通っていて、中には大きなモミの木やイチイの木が何本も生え、立派な生け垣もあった。
生け垣の向こうは牧場になっており、池や小川も流れていた。
牧場には牛が数頭、小川にはガチョウの親子が遊んでいた。

トムがキットスン叔父さんから聞いてた話とは全く違っていた!

次の日の昼間、トムは扉を開けて裏庭に出てみた。
そこはゴミ箱と古い車が置かれただけの、話に聞いた通りの、狭く詰まらない空き地に過ぎなかった。
でも、真夜中、ホールの古時計が「13の鐘」を鳴らした時にだけ、あの大きな庭園が出現するのだった。

こうして退屈な日々に嫌気が差していたトムは、毎夜、繰り広げられる小さな冒険に夢中になっていった。

真夜中の庭園では、人々も見かけるようになった。
若い女中や庭の手入れをする園丁の青年。
トムよりも歳上だと思われるヒューバート、ジェームス、エドガーの三人の子供たち。
その男の子たちにいつも付きまとい、邪険にされている小さな女の子「ハティ」。

不思議な事に、彼らにはトムの声が聞こえず、姿も見えない様子なのだった。
そして不思議な事がもう一つ。
自分の手が霧のように、地面の石も温室の扉もすり抜けてしまう事であった。
自分の姿は庭園の人々には見えず、何故か園丁の愛犬「ピンチャー」や森の小鳥たち、牧場の牛には、見えずともトムの気配は感じている事も不思議だった。
トムは自分が幽霊になった気分だった。

そんな時、トムは小さな紙片を発見する。
そこには幼い子供の字で、こう書かれてあった。
「妖精たちの王、オベロンへ」



いけね。
また長くなりそうです。
もう少し、端折っていきます。



ヒューバート、ジェームス、エドガーの三人の男の子たちは、この屋敷の女主人「メルバン」の息子たちだった。
ハティは女主人の亡くなった夫の姪で、ハティの両親が不慮の事故で亡くなった際、慈善施設から引き取られてきた可哀想な少女だったのだ。
男の子たちやメルバン夫人に、いつも邪魔者扱いされているハティの事が、トムは気になっていった。
そんな時だった。
「おーい!」
突然、ハティがトムに声を掛けたのだ。

「わたし、もうずっとまえから、何度も何度もあんたにかくれて、あんたを見ていたわ!
あんたがハシバミの木の切り株のそばを走って、わたしの秘密の生垣のなかのトンネルを牧場へぬけていったときも、
部屋のほこりをはらっていたスーザンに、あんたがイチイの木のてっぺんから手をふったときも、
果樹園へいくドアをあんたがまっすぐに通りぬけたときも!」
ハティには以前からトムが見えていたのだった。

庭園での不思議な事は続いていった。
毎夜、トムが庭園へ訪れる度、「時間」がおかしいのだ。
真夜中に庭園に入ったのに、そこは夕方だったり、早朝だったり、しまいには昼間だった事もあった。
さらに、季節もおかしかった。
夏だと言うのに、庭園では春の花や秋の花が咲いているのだった。

そんな中、トムとハティは親しい友達となっていった。
庭園の「物」に触れないトムは、ハティと一緒に枝を折り、簡単な弓と矢を作り、弓矢遊びもした。
大きな木の上に、二人だけの小屋も作った。
ハティに誘われ温室にも入って見た。扉に触る事の出来ないトムは、単にハティの後ろを付いていくしかないのだけども。

そしてある時。
トムはハティが最初に会った時より、確実に成長している事に気がついてしまった。
トムは毎晩、庭園を訪ねていたのに、ハティにはそれが数ヶ月間が立っていたのだった。
「また、明日ね」と言うトムに、ハティは笑って、そして少し寂しそうに「あんたはいつでもそう言うけど、何ヶ月も何年も立たなきゃ、姿を見せないじゃないの」と言うのだった。

もう一つ判った事があった。
庭園とハティたちは、トムの時代より100年前に実在していたのだった。


ある日、弟の風疹が治り、母親から帰って来いとの催促が届くようになった。
その夜、庭園に入ったトムが見たのは、雪が一面に降り積もった綺麗な冬景色だった。
そこでは、ハティがすっかり成人の女性となっていた。
トムはハティから、自分の姿が透けて薄くなっている事を指摘される。
トムはハディと庭園の「十年の時間」を見ていた事に気がついた。
トムにとっては、夏休みの間の「ほんの二、三週間」に過ぎなかったのに。
二人の別れの日が近づいていた。

※本当に最後までストーリィを書きます。注意!



トムとハティの最後の日。
庭園の中は、再び冬景色だった。
二人は初めて一緒に庭園を抜け、屋敷から外に出てみた。
トムはハティと一緒の、こちらの「時間」をしばらく凄そうと決心していた・・・。

二人は馬車に乗り、凍った川に出た。
その年はイギリス全土を襲う、何百年に一度の大寒波のせいで、キャム川から大ウーズ川まで、川は完全に凍っていた。
すっかり大人となったハティと共に、トムはスケートで下流へ下流へと滑って行った。
こんな楽しい事はなかった。
イーリーの町では大聖堂にも登り、二人で見晴らしの良い景色も堪能した。

しかし、再び屋敷に帰ってきた時には、トムの姿はすっかり薄く消えようとしていた。
次に、トムが気づいたのは自分のベットの上だった。


トムはもうあの庭園へは行けなくなっていた。
真夜中の「13の時」の後でも、扉の向こうにあるのは庭園でなく、現実のゴミ箱とガラクタが置かれた「狭い庭」があるだけだった。
愕然とするトム。


ハティと一緒に遊んだ楽しかった日々は、もう終わったのだ。
「ハティ!ハティ!」
トムは一階のホールで金切り声を上げ、小さな子供のように泣き叫んでいた。
大声を聞き、アパート中の住人が集まってきた。
その大声は三階の大家「バーソロミュー婆さん」も目覚めさせていた。

次の日の朝。
トムは騒ぎを起こした事を謝るために、三階の「バーソロミュー婆さん」の部屋を訪れていた。
そして。

「ねえ、トム」と、お婆さんは言った。
「わからないかね?あんた、わたしをよんだんだよ。
わたし、ハティですよ」


そう、ハティ・バーソロミューは言ったのだった。



本作「トムは真夜中の庭で」は、ホールの大時計に象徴されるように、「時間」が重要なテーマになっています。

また、本作はトムから見た場合と、ハティから見た場合、それぞれ違う二重構造の物語となっています。

トムから見た場合。
たまたま一夏を過ごす事となった、叔母夫婦が住むアパートのある屋敷。
真夜中、古時計が13回鳴る時にだけ現れる不思議な庭園と、そこで知り合った不思議な少女「ハティ」。
これは大昔の在りし日の庭園の幻影と、この屋敷で亡くなった人の幽霊かも知れない。

ハティから見た場合。
少女時代、時々庭園に現れた不思議な少年「トム」。
自分が歳を取るのに対し、トムは少年のまま、時が移っても変わらぬ姿で現れる。
両親を亡くし、伯母に引き取られた孤独な少女ハティが、「イマジナリィ・フレンド」として得た友達が「トム」だった。
(蛇足ながら、このイマジナリィ・フレンドの傑作が、大島弓子の漫画〈F式蘭丸〉であります)

面白いのは、二人がそれぞれ相手が、「ひょっとしたら幽霊ではないか?」と疑っている事でした。

そして最後、この2つの物語が一緒になるのです。
私はこれほど、巧みな構成を持つ小説を読んだ事がありません。
読了後、思わず「凄い!」と思ったのでした。


本作は「児童文学」としてはもちろん、「幻想小説」としても、さらに「SF小説」としても傑作だと思います。

冬の庭園に行ったトムが、ヘティからスケートに誘われ、スケート靴を持っていないトムはヘティに自分のスケート靴を衣装棚の「秘密の場所」に隠して置くように約束させます。
その後、現実に戻ったトムが「秘密の場所」から古いスケート靴を回収し、再び冬の庭園へスケート靴を持って行き、めでたくハティと一緒にスケートをする・・・。

これはSFの「時間トリック」の何者でもないと思うのです。

と言っても、本作を「タイムトラベル小説の傑作」とするのには、いささか賛同しかねます。
やはり本作は、「児童文学」であり「幻想文学」だと思うのです。



「児童文学」の王道は、「ボーイ ミーツ ガール」であります。
「少年が少女と知り合って」冒険、物語が始まるのです。

結果、物語のラストで少年と少女が再び別れる事になっても、物語の中の二人は「前よりも確実に成長」しているのであります。


この「児童文学」と「スタジオジブリ」のアニメーションは、とても「親和性が高い」のは、どなたにも異論はないでしょう。


「角野栄子」の児童文学をアニメーションにした「魔女の宅急便(1989)」はもちろん、「ダイアナ・ウィン・ジョーンズ」の「ハウルの動く城(2004)」、「アーシュラ・K・ル=グイン」の「ゲド戦記(2006)」、「メアリー・ノートン」の「床の下の小人たち」を原作とした「借りぐらしのアリエッティ(2010)」、「ジョーン・G・ロビンソン」の「思い出のマーニー(2014)」等々であります。

「宮崎駿」に関して言えば。
彼の監督デビュー作のTVアニメ「未来少年コナン(1978)」も「アレクサンダー・ケイ」の児童文学「残された人々」を原作にしていました。

原作でなくても、劇場長編監督デビュー作の「ルパン三世 カリオストロの城(1979)」も、「江戸川乱歩」の「幽霊塔(1937)」、そのジュブナイル「時計塔の秘密(1959)」から影響を受けていました。

「千と千壽の神隠し(2001)」も「柏葉幸子」の「霧のむこうのふしぎな町」からインスパイアを得ていたというのは、有名な話です。

彼が嬉々として表紙や漫画をよせた「ロバート・アトキンソン・ウェストール」の「ブラッカムの爆撃機」も児童文学でした。

これらは、宮崎駿が大学時代、児童文学研究会(サークル)に入っていた事とは無縁ではないでしょう。

「児童文学」にはファンタジーはもちろん、奇妙な話、変な話、幻想談や幽霊話、怪談話が多いのです。
それは「子供が面白がるから」という単純な理由であります。
そして、そこに物語の基本があると思うのです。

先の「ブラッカムの爆撃機」も、読む前までは「宮崎駿が好きそうな第二次大戦の爆撃機物語なのだろう」と思っていたのですが、実際に読んでみると、まったくの「怪談話」で吃驚した覚えがあります。
宮崎駿ではありませんが、「思い出のマーニー」も良く出来た「怪談話」だったのです。



「トムは真夜中の庭で」は「児童文学」です。
「トムは真夜中の庭で」は「幻想文学」です。
そして、本作を「時間テーマのSF小説」と言う人もいます。

なんにせよ、この面白い小説を読んだ事のない人は、一度読んでみる事を、真摯にお勧めするのであります。

え?
大人になった今更、昔の「児童文学」を読んでみても遅すぎるって?
確かに・・・まあ・・・半分は、その通りなのですが・・・。
でも絶対、面白い小説なのですから。




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